Blanches fleur
□その理由を――
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「なあ、ゼスト」
遅い夕食のあと、ラグは閑散とした食堂のカウンターで新聞を広げるゼストリアに、何とはなしに声を掛けた。
「今日も美味かった」
「当たりめェだろ!」
言葉とは裏腹に、髭面を嬉しそうに歪めてゼストリアは笑った。
脚の長い椅子に腰かけて、ラグは言葉を重ねた。
「ゼスト」
「あンだよ、深刻そうな顔して……ロゼちゃんにフラれたのか?」
「違ェよバカ。不吉なこと言うな」
「…何だよ、悩みでもあんのか」
持っていた新聞を大雑把に畳み、彼は俯き加減になったラグの顔を覗き込む。
ラグは何か考えていたが、やがて言葉を選びながら口を開いた。
「ゼストはさ、戦わなかったじゃん。この前」
「あ?あァ、まあ料理人だしな」
「でも明花さんに聞いたぜ。ほんとは俺より強いんだって」
「そりゃ言い過ぎってもんだ」
「…なあ、何で戦わなかったんだ?」
沈黙が二人を包む。
ラグはその翡翠色の瞳でゼストリアを真っ直ぐに見つめ、彼はそれを受け流しながら何事か思案している。
やがて、ゼストリアが立ち上がった。
「素面で話す話じゃねえし、ちょいと酒でも飲もうや」
ニッと笑って、カウンターの後ろにある棚からテキーラとコーヒーリキュールの瓶を下ろしてくる。
メジャーカップで計りながら手際よく液体を混ぜ合わせ、そう時間をかけず、ラグの目の前に赤黒いカクテルが出された。
これは何だろうと考えていると、ゼストリアはグラスの縁をライムで濡らし始めた。
「何してんの」
「まあ見てろって」
ライムを一周させると、今度はグラスを逆さまにして塩にそっと触れさせる。
くるりと回して置かれたグラスの縁には塩が付着し、まるで雪のよう。
ラグが見とれている間にも、ゼストリアは休むことなく傍らの磨かれたシェイカーを手に取って、氷、テキーラ、ホワイトキュラソーなどを順に入れて振り始めた。
仄明るい、オレンジ色の灯に照らし出されたゼストリアの手はごつごつとして、その甲には血管が浮いている。
それが如何にも『オトナ』で、悔しいほど格好良かった。
やがて雪の降ったグラスに注がれたのは白いカクテル。
「…雪の中の湖みたいだな」
「ラグにしちゃあいい感性じゃねェか」
「うっせ」
からかわれて口を尖らせると、ゼストリアがおかしそうに笑いながらラグの隣に腰かけた。
白いカクテルをくっと煽る。
「それ、何て言うの?」
「これか?これは『マルガリータ』。高貴な名前だろ?…オメーのは『ピカドール』っつー食後酒だ」
「ふうん」
ピカドールと言うらしい、その赤黒いカクテルを口に含むと丁度いい甘さが舌の上に広がった。
「あ、うめ」
「だろ?」
「最高だぜ、流石ゼスト。…で、何で戦わねえの?」
「…忘れてなかったか…」
舌打ちでもしそうな顔でゼストリアが言う。
でもまあ約束だしな、と顔を上げ、口を開いた。
「俺はさ、料理人だろ?つまり人の命を支える人間だ」
そこで一旦言葉を切り、マルガリータを煽る。
「昔、ある女と約束したのさ。――料理人である以上、殺しはやらねェってな」
「何で?」
「そりゃあオメー、この手は人の命を繋ぐためのもんだから、何かを壊したりする手であっちゃァいけねえ。料理人は余計なセッショウで汚した手で料理しちゃいけねえっつー理屈だよ」
何だか分かるような、分からないような理屈だと思った。
もしかしたらアルコールのせいで理解できなかったのかもしれない。
言葉が神隠しにあったように見つからなくなって、ラグはまたピカドールに口をつけた。
瞼が重い。
脳味噌がどろりと溶けたように動かなくなって、結局ラグはカウンターで寝てしまった。
そんな青年を横目で笑い、ゼストリアはマルガリータの最後の一口を喉に流し込んだ。
「仄かな塩気は涙の味…か」
自虐的に笑って、彼はぽつりと漏らした。
俯いた顔には深い愛と哀しみが浮かぶ。
「…本当は『お前』を殺した手で料理なんか、作っちゃあいけねえんだけどな」
骨張った左手の薬指――嵌められた銀の指輪に接吻けを落とす。
「もうちょっとだけ、許してくれや。――セレン」
今は亡き、愛した女を想って、男は二杯目をグラスに注いだ。