Noir fleurs
□吸血鬼と、
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こつ、こつ、と堅い靴音が響く。
家路を辿るその靴音に、もう一つゆったりした靴音が重なった。
彼女自身はそれに気づいていない。
何故なら彼女は今、別のことで頭がいっぱいになっていた。
「…この辺変な人いるって聞いたけど、大丈夫かな…」
道連れがいればいいのに、と溜め息をついて、月が照らす道を歩く。
気のせいか、先程よりも道が暗く見えた。
「Bon soir, mademoiselle」
街角から投げ掛けられた声は、全くその唐突さを感じさせず空気を震わせた。
聞き慣れない異国の響きに徠嘉は身を強張らせる。
闇から融け出すように現れた男は、その様子を見てくすりと笑った。
「そう固くならなくとも、捕って喰いやしません」
聴く者から警戒心を取り払う、柔らかな声が徠嘉の耳に滑り込む。
肩の力をふっと抜いて、彼女は男に向き直った。
「誰?」
「『誰』…そうですね、それに答えるのは容易くない。名前と言うのは些末だし…私にはたくさんの名前がある」
「何だそりゃ。じゃあそのうちのどれかでいいよ」
「そうですね――では『ジン』、と。今はそう呼んで頂ければ」
優雅な仕草が自然な男だ、と徠嘉は思った。
と、男――ジンが首を傾げながら徠嘉に問う。
「お嬢さんのようなうら若い女性が、何故こんな時間に出歩いているんです」
「え、いや…あんまり綺麗な街だから写真撮ってて…」
「成る程。だが、程々にしなければ…襲われてしまうやもしれませんよ。近頃は吸血鬼が出るそうですから」
「吸血鬼?」
足を踏み出しながら返事をする。
何故だか道が歪んで見えた。
そもそも、帰路は此方だっただろうか。
――ああ、また暗くなった。
「そう。女性を物陰に引き込んで血を吸う輩がいるのです」
言い終わらないうちに徠嘉の腕が引かれる。よろけた彼女はジンの胸に抱き留められた。
くるりと体を反転させられて、背後から包み込まれるような形になる。
「――…こんな風にね」
ふわりと香る薫りも、耳元で囁く声も蕩けるほど甘く、彼女から思考力を奪う。
白い手袋をした大きな手に胸元のボタンを手早く外されても、抵抗する気力が湧かない。
露になった首筋をするりと撫でられ、小さく肩が跳ねる。
「な、ん…」
「御覧、今日は月蝕だ。あの月を見ているとどうにも躯が疼いてね」
見上げると頭上には紅い満月。
如何にも禍々しいそれをぼんやりと見つめていると首筋にちりっとした痛みが走った。
じわりとした痛みが、次第に何か違う感覚に変わっていく。
「う…」
「痛みはないはずだが…大丈夫か?」
触れられたところが熱を持つ。
その熱で、声で、何も考えられなくなる。
ぴちゃり、と何か水音が、そしてそれに続く呟きが鼓膜を震わせた。
「…甘い」
ぼんやりした頭で、彼は何をしているんだろうと考えても、答えは見つからない。
途端、強く吸われて唇から声が溢れた。
「あ、ぁ」
徠嘉の躯が崩れ落ちる直前、ジンの腕が彼女を抱き止めた。
名残惜しそうにはだけた首筋に接吻けを落として、彼は徠嘉をそっと座らせる。
「Merci、お嬢さん……また何処かで御逢いしよう」
徠嘉がその言葉を理解する頃、彼は何処かに消えてしまっていた。
首筋をそっと撫でてみても、特に痛みはない。
夢だったのではないかと思うほど、その場には何も残されていない。
ただ一つ、甘い残り香が夢ではなかったことを教えてくれた。
まだ今一つ力の入らない体を何とか起こして、立ち上がる。
カメラも無事だし、まあいいかと何かを大きく間違った感想を胸に彼女は歩き出す。
月は先程よりも明るく、彼女の行く道を照らしていた。