旅の記憶

□Vintage
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こんこん。

控えめに部屋のドアを叩く。

『はい。どうぞ?』


別に用事がある訳じゃない。
明日の打ち合せは食事の時に済ませたし、忘れ物をした訳でもない。

ただ…。
特に今夜は。


彼の声を聞きドアノブに手を掛けてから、まだ言い訳を考えていない事に気付いた。

酒でも一緒に…は酒を持ってないと駄目だ。カードも麻雀もやりたい気分じゃない。
何か自然な言い訳はないか?

“眠れないんだ”
よし、これでいこう。 

「そろそろ来る頃だと思ってましたよ悟浄」
ドアを開けるいつもの柔らかい笑顔があった。


「うん?あのさ…眠」
「眠れないんでしょ?」

驚いて顔を上げると八戒はくすくす笑った。向けられるのは、何もかも見透かされているような翡翠の瞳。

「こないだも同じ事言って部屋に来たじゃないですか」
ほら、と窓の外を指差す。

今夜は雨。

「バレてましたか」
苦笑しながら八戒が座っている椅子の向かいのベッドに腰を掛ける。

「必ず来てくれるものですから…お陰で結構、雨の夜が楽しみになってたりするんですよ?」
ふわっと笑い掛けられ思わず顔が弛む。

「…実は俺も」
理由を知りながら、不謹慎でも嬉しい。



柔らかい空気が流れる部屋。
窓を叩く雨音は強くなってきている。

八戒が少し表情を曇らせ、シャツの胸のあたりを微かに掴むのを、俺は見逃さなかった。 

「はっ」
「大丈夫ですか?…傷」

何か言おうとして口を開けた所で八戒に先手を打たれた。
あぁ…そういえば俺、さっきやられたんだっけ。

「…あぁ、全然へーき。つかお前が傷塞いでくれたから」
自分の肩に触れる。

ここへ来るまでの間…妖怪に襲われた時。
数が多かったから、二手に別れようって事になって…。
そう。あん時、頭が真っ白になって何も考えられなくなったんだ。
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