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□『LOOP―神室町の長い半日―』
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【桐生→伊達 八時〜九時】

 穏やかな一日の始まり。休日の朝をこんな風に過ごせるなど、神室町に居た頃では考えられなかった。これも全て由美が遺してくれた遥のお陰なのかもしれない。
 数年前、神室町を拠点とする東城会傘下の極道組織を激震させたあの事件以降、極道の世界から足を洗い、俺は郊外で遥と暮らしていた。
 血生臭い世界から一転して、自分の子供といっても可笑しくはない年端の子供と生活を共にするなど、あの頃を振り返ると今でも信じられない。
 日に日にこんな生活も悪くはないと思うようになった。
 普段は遥が豆から丁寧に淹れてくれるコーヒーも、今朝は自分でインスタントの物で済ませた。彼女は朝早くから友達と遊ぶと言ってとっくに出掛けていた。そんな時にでも俺の分の朝食をテーブルの上に用意していくところが子供らしくないような気がしないでもなかった。
 普通の家庭ならば母親の役目を文句一つ溢さず、甲斐甲斐しくこなす遥に時折申し訳なく感じる事もある。
 いつもなら何処に行くのか細かく訊く事も、今日はせずにいたのにはそんな理由もあったからだ。もうすぐ中学生になろうとする子供に大人の事情ばかり押し付けるのも憚られた。たまにはのびのびとさせてやりたい。隠し事の一つや二つあっても可笑しい年頃ではないだろう。
 あの時とは違って、自分を取り巻く環境もすっかり平穏になった。さして心配するような事はもうないはずだ。
 常日頃から周りに、遥に対して過保護過ぎると言われ続けていた。本当の父親ではないが親馬鹿過ぎるのも将来の事を考えると好ましくない。いずれ自分の元を巣立って嫁に行く事を思えばそろそろ子離れする時期なのかもしれない。
 漠然とそんな事を考えていたらチャイムが鳴った。見るともなく付けているテレビ画面が八時を知らせていた。
 休みの朝っぱらからいったい誰なんだ。セールスにしては随分と早いような気もするが、仕方なしに玄関に足を運ぶ。ドアスコープから覗くような面倒な事はしない。強盗に入られても盗られるような物は何一つなかった。
 唯一守りたいのは遥ぐらいだ。彼女が不在の今、自分一人ならばどうにでも出来る。
用心もせずにいきなりドアを開けると、そこには自分と同じ子離れの出来ない伊達さんが立っていた。普段から訪ねてくる事はあるが、朝からやって来るのは初めてで、正直なところ驚きを隠せなかった。心なしか清々しい朝には似合わない顔付きなのが気に懸かった。
「よぉ! 休みの朝っぱらから悪いな。起こしちまったか?」
 罰が悪そうにいつも無造作な髪を掻いている。
「いやとっくに起きてたから気にしないでくれ。突っ立ってないでとにかく上がったらどうです」
 そう促すと遠慮する素振りも見せず、伊達さんは自分の家にでも帰ってきたかのように上がり込んでくる。お互い余計な気遣いをする間柄ではない。あの事件で失った物も多かったが彼との友情を得たのは大きな収穫だった。
「遥はいないのか?」
「ああ。早くに友達に逢いに行くと言って出掛けた」
 出したインスタントコーヒーに口を付けると彼は顔を顰めた。
「苦っ! お前、インスタントコーヒーもまともに淹れられないのか!? ほんと遥がいねぇとなんにも出来ねぇ男だな」
「アンタがあんまり眠たそうな顔してたからだ……」
 痛いところを突かれた気がした。仕事こそはまともにしているが、日常生活の細々した事は全て遥かに甘えている。しかし伊達さんも人の事をとやかく言える立場ではないはずだ。相変わらず縒れたトレンチコーチに糊の利いていないワイシャツ。
 沙耶という年頃の娘と一緒に暮らしているはずなのに、何故そんなにくたびれた風貌のままなのだろうか。他人事ながら心配になってくる。
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