□久世山
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野に風が吹いた。

人差し指程の草々が端から端まで満たしている野に風が吹く。風が渡ると生い茂る草花がなぜられて、所どころに大人の人の腰ほどに伸びた野草も綺麗になびいてゆく様は言いようもなく長閑である。
遠くのほうで木々が揺れるのが見えて、風が野と森を抜けて、少し離れた宮のほうへ通っていくのが分かる。大王や、その后たちの住まう宮は、野の向こうにある森のまた向こうにあるのだ。ここからはそう遠くも無いが、もしかしたら早くも異変に気がついたハシタメたちが騒ぎ立てているやも知れない。

でもそんなことは今は本当にどうでもよかった。
だって抜け出したかったのだもの。息が詰まりかけているのを山背王(ヤマシロノオオキミ)が見つけて、牟那智(ムナチ)とここまで連れてだしてくれたのだ。

森を通って届く宮の風は穏やかで涼しいだけ。でも、野の風は陽の匂いがして暖かい。
八津比売(ヤツヒメ)はたいそうこの久世山のふもとに広がる野が好きだった。

けれども、今は楽しい気持ちもどこかへ消え去り、ただただ首をうなだれている。
いつだって、そう。こういうのは慣れている。

地べたに座り込んだ少女はぶすくれた表情で花を摘みとった。
透き通ったように白い肌が、日の下には不釣り合いだが、どこか絵に描いたかのような美しい少女。結っていない下ろしたままの黒髪が風に踊ってそれを隠す。


「山背王(やましろのおおきみ)はまたどこかに乙女を探しにゆかれたの?」

飄々と声が掛ったとき、少女は少し乱暴に花を摘みとった。
振り返れば、水を汲みにやられた従兄弟が小首を傾げて立っていた。

「珍しく目の前を鹿が通りかけたのでそれを追ってゆかれたわ。牟那智、あなたは置いてゆかれたの」

見た目通りに可愛らしい声なのに、ぶっきらぼうな物言いだ。
自分の為に汲んできてくれた水の事などお構いなしに皮肉たっぷりに従兄弟に返した。
自分が酷く彼に八つ当たりをしているのが分かったが、わざとではないにしてもただ単に気に障る言葉を言った彼に腹が立ったのは事実だ。八つ当たりをしても罰(バチ)は当たらない気がした。そうしなければ、やっていられない。

暫く八津比売は大きな眼で牟那智を睨んでいた。
少年は目をしばたかせてその様子を見ていたが、やがて意を汲んだかのようにからから笑った。

「そう、そしてきみも置いてゆかれたんだよ。雌鹿はたいそう美しかったのだね。見たかったなぁ」

先程の皮肉の仕返しに、それこそちょっとした皮肉を混ぜて言う。そこにほんの少しの本音も交えていたから、八津比売の変化を牟那智は気付いてやれなかった。

「見ないでいいわ。」
「どうして?」
「大した事ないもの」

あんなの。言う彼女の横顔はきゅっと唇を噛んで少し泣きそうでもある。

「わらわのほうがずっと綺麗だもの」
言い切った八津比売の目から雨粒がぽろりとこぼれた。
牟那智は驚いて息を呑んだ。

「ごめん。意地悪を言ったつもりはないんだ」
「あやまらないで。事実だもの」

しゃくり上げて、堪えようともしたが涙の粒は大粒になって少女の瞳から後から後からあふれ出てくる。


他の兄君や姉君たちとは違って、身分の低い母をもつ八津比売の周囲からの風当たりは比べられる事など出来ないくらいにきつい。それでも何とか歯を食いしばって耐えても、時には挫けそうになるときも時々。息が詰まりそうになった時、いつも大兄上の山背王が八津比売を見つけて、この野につれて来てくれるのだ。野で頭を撫でて、優しい言葉を掛けてくれるのが、一番嬉しい。
けれども、そんなひと時は長くはもたない。山背王はいつもすぐに隣から姿を消してしまう。


妹君を慰める以外に、兄皇子には目的のあることを八津比売は知っていた。

上手く外に出ることの口実にされている事も知っていた。

ひとりにされる時、とてつもない孤独感にさいなまれる。
事実を突きつけられたように唐突に自分と兄との距離を思い知るのだ。
牟那智はそういう事情を知っていて、兄に連れ立って野に行く際にはいつも後をついてくる。八津比売がひとりにならないように。孤独感にさいなまれることなどないように。

やさしい牟那智。
かしこい牟那智。

でも、そんな情けない自分を知られているのはとても堪えられない。

そんな自分自身が酷く哀れで、惨めで。
ほら、もう考えれば考える程涙が止まらない。



「泣かないで。僕も悲しくなってしまう」

気がつけば牟那智が優しげな面差しで目の前に立っていた。袖の先でそっと涙で濡れる頬を拭った。

「泣き止んで。僕はきみが泣く事なんてないような大人になるから」

あまり聞きなれないことを聞いたように、八津比売はびっくりして涙が止まった事にも気がつかない。牟那智は少し赤みの差した頬をしていたが、にっこり笑んで見せた。

「あきれた。牟那智ったら、そういうことは妻問いの玉を上げる相手に言うものよ」
開いてしまった口を暫くして閉ざしてから、八津比売は言った。

「うん、だから、八津比売にあげる」
牟那智は笑顔で言った。瞳が真剣さを増していて、八津比売は火照るのを感じる。見られないように顔を背けたが、途端風が吹いてぬば玉のようなたおやかな髪をかき上げていったので見られたのかも知れない。
そよ風に運ばれた葉が、牟那智の髪についた。

「あら、わらわより年下の癖に」
髪についた葉をそっと取りつつ、少女は嬉しそうに笑った。綻んだ花のような可愛らしい笑みだ。
「年下といったって、三月(みつき)しかからないじゃないか。それに、年が明ければ皆ひとつ年を取るのだから関係ないよ」
飄々と答える彼は、八津比売の知っている牟那智とどこか違う気がしたが、知らないふりをした。

「いいわ。でも、直ぐに無くおのこはきらいよ。妻問いの玉だってすぐに返してしまうわ」
「それは気をつけるよ。なるべく」
これからはもう泣かない、断言した従兄弟と大王の末子の秘密の約束。
 

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