□しらとりの空
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「こほん。」


咳払いに、年の頃十六の娘はふと顔を上げた。じっと、密かに写しとっていた筆の手を止め、声のしたほうにその目を移した。
ぬばたまのような髪を垂らしたままの、白く透き通った肌をした美しい娘だ。振り向いた先には端正な顔立ちの青年が戸に寄りかかるようにして立っている。娘が青年を見るや、青年は朗らかな笑みを浮かべて娘に手を振った。途端に、娘の頬が緩む。

「従兄上!いつごろからそちらにいらしたのだ」
「久しいな、雨洲主良。今しがただよ。」
「従兄上がこちらにいらっしゃるとは、珍しいことだ。前にお会いたのは一月も前のこと、さも久しくもなりましょうなあ。さあ、そのような処におられず、中にお入りになられませ」

雨洲主良皇女は、傍らに筆を静かに置いて、訪れた岩渡戸皇子に手前の席を差して招いた。皇子はひととき美しい従妹君の皮肉に苦笑を浮かべ、促されるままに皇女と向かい合せの席にあぐらをかいた。二人の間にある文机には、まだ皇女が進めていた写経が途中で放られた形になっている。おや、とおもむろに皇子が面白げにそれを覗いたのを、皇女は素早く右手で遮るように隠してしまった。それを認めて、皇子の顔にいつのまにか意地の悪い笑みが浮かんでいる。皇女は眉根を寄せた。

「…お人が悪い」
「別に、隠すこともあるまいよ。わたしに見せてくれぬか」
否やとばかりに皇女は従兄君をねらみつけた。悪ふざけをいさめるものにしては、些かするど過ぎる眼差しである。

「従兄上のお目汚しにしかなりませぬ」
皇子がからかうように言うと、皇女の眉間の皺が一層深くなってゆく。その様子を皇子は可笑しそうに笑みを濃くする。


「そう怒るな。まさか、雨洲主良の書く文字がわたしの目を汚すなどと、そんな道理が何処にあるのだ。この筆で書かれた文字がそなたの書いたものなら、わたしはそれすら愛しく思えるよ」

皇子は、皇女が遮った手から溢れた文字を愛しそうに優しく触れる。
「また、従兄上はすぐにからかいなさる。女が文字を習うことがそんなにもおかしく思っていらっしゃるのか」
非難の言葉に皇子は「まさか」と首を振った。

「立派な事だ。そなたのように学問を学ぼうとする気骨のある女人を、わたしは他に知らない。どれ、見てやろう」
暫く躊躇った皇女だが、今の皇子には些かの興味本意も無いことを認めて、恥じるようにそっと右手を退けた。
皇子は皇女の書く文字を熱心に見た。ゆっくりと長い指が文字を辿って、その瞳が優しく愛しそうに細められる様に皇女の心はそわそわと落ち着かない。皇子の向かいで、皇女はまた目の前の従兄君を熱い眼差しで見ていて、内心穏やかではなかった。


そのような瞳で見ないで欲しい。

そのように全てを愛しむように、触れないで欲しい。



急いで書き写した書面を隠してしまいたくなるくらいに堪らなくなるのを、やっとの思いで皇女は堪える。

やがてほぅ、と皇子が感嘆の息を吐くと、皇女もまた安堵の息を着いた。

「本当に、良くぞここまで。一段と上手くなった、驚いたな。そなたが一段と美しくなったのと同じくらいに」
皇子から朗らかな笑みが溢れたので、皇女もつられて笑ってしまった。そして、ささやかにも美しいと言われたことに皇女の心はときりと鼓動を打つ。

「何を、わたくしが美しくないことが今までにあったとお思いか?本当に従兄上はひとつもお変わりがないこと。……このような事を出来るのも、あと少しのこと。そう思えばこそ、日がな一日筆を取って書いておるのです」

その美しい顔立ちに似合う凛とした声音が、だんだんと弱いものへと変化してゆくのに気付いた皇子が表情を曇らせた。

「父上から聞いた。」

従兄君である皇子の、幾分緊張して乾きのある声が、静かに部屋に響いた。
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