・短・
□*愛憎*
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昨日見た、アイツの顔が頭から離れない。
昨日言われた、アイツの言葉が頭から離れない。
アイツが自分に向ける言葉なんていちいち真に受けて相手をしていたら頭が痛くなるだけだと思って、適当に受け流すのが常だった。
だからこそ、昨日の言葉だっていつものように耳にも頭にも残さずに消してしまいたいのに。
『……土方さんが好きですよ……』
顔を見る事さえしなかったから、その言葉を発した時にアイツがどんな表情をしていたのか、どんな声色だったのかもわからない。
嫌、知りたくないというのが本音だろう。
きっと、いつもの皮肉った笑みを浮かべていたのだろうと自分の中で消化させる。
きっと、いつもの嫌がらせというか憂さ晴らしに口にしたのだろうと自分の中で納得させる。
でなければ、信じたく無い。
アイツが俺を好きだ、など。
真実であればある程。
それは痛みしか伴わないと知っているから。
道場に乾いた空気を切る音が続く。
冷たい風が隙間から割り入るのを拒むように重い木刀から振り下ろされる風に隙間風は押し戻された。
霜月も半ばになればかなり冷え込む。
早朝のこの時間に道場に足を向ける者はおらず、静まり返った空間には木刀が起こす風の音しか聞こえない。
こんな時間にこんな事をしている暇など無いんだ、と先程から自分を叱咤する声は頭の奥で鳴り続けている。
だが何かを振り切ろうとするかのように腕も足も必要に素振りをさせ続けた。
ーー何をそんなに気にしているのか。
自分自身に疑問が募る。
自分が納得の行く答えはとうに出ているはずなのに何をそんなに問いつづけているのか。
自分への苛立ちが木刀を握る指を不必要に力ませていく。
漸く止める気になったらしい腕は、道場の冷たい床に木刀を投げ出した。
腕にも顔にも汗を流している事に気付いて胴着から手ぬぐいを取り出し、ゆっくりと汗を拭っていく。
汗に濡れた髪が湿った頬に張り付いていて鬱陶しい。
いい加減長すぎるこの髪も流石に切るかと、流れる自分の髪に触れた時に振り切ろうとしているはずの昨日のアイツの言葉を思い出す。
『願掛けでもしてるんですか?』
頬を包む垂れた横髪を見て、からかうように笑いながら自分の髪に触れてきたアイツの手。
いつもなら気にもしないのに何故かその仕草に違和感を感じてアイツの目を見た。
ガキ臭さが残る顔立ちのクセに自分よりも高くなった背から覗き込まれた瞳は微かに揺らいでいて。
まるで愛おしむような優しさを見せたアイツの目を見てしまったから、妙に背中が寒くなった。
ーーなんて顔、してやがる。
急にアイツが大人びたように見えて、触るなと言いたかったのにその言葉を吐くのを躊躇した。
ドクリと心臓が鳴った。
高鳴りでは無く、不安に似た鼓動。
見てはいけない。
知ってはいけない。
そんな危うい深層に微かに触れてしまったような気がした。
だから何も言わずにその手を跳ね退けて無言で歩いた。
いつもより大股だったのは早くアイツから離れるべきだと思っての事だろう。
背中越しにアイツがまた不可解な言葉をかけてくる。
『逃げるんですか?』
何も逃げちゃいない。
逃げなきゃいけない理由なんか無い。
口には出さずに自分に言い聞かせて、歩みを止めずに無視をした。
アイツはまだ何か言っていたようだったが、聞いてはいけないと自己防衛の力で耳を塞ぐ。
『……土方さんが好きですよ……』
塞いだはずの鼓膜に滑り込んで来たアイツの言葉はそれだった。
その言葉の前後、何を言っていたかなど聞こえなかったのに、一番拾いたくなかった言葉だけをしっかり拾ってしまったから。
もう、振り向く事など出来なかった。