秘密請負人
□―喪失と焦燥―
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香は首をめぐらせて、声のした方を向く。
長い黒髪をおさげにした、分厚いレンズの眼鏡の少女。
いかにも真面目な容姿のうえに、その手に抱えていたのは化学の教科書だった。
「松崎さん、どうしました?」
「大学の二次試験の過去問でわからないところがあって…」
松崎と呼ばれた生徒は、気を遣ってか香を心配そうに見てから、柚介のもとへと歩く。
女子高生の平均よりは明らかに長いスカートが邪魔に見える。
話の内容から察するに三年生の人だろうと、香は上履きに目を向ければ、案の定、一年でも二年の色ではなかった。
「どの問題ですか?」
「ここなんですけど…」
そうやって教えている柚介はさすがに教師の顔で、副業絡みのときや香に向ける嫌味な顔のいずれとも違う。
「猫をかぶっている」というのも少し意味がずれていて、外面の良さは関係なく、柚介は"教師"なのだった。
その横顔を、自分が足を引っ掛けてばらばらにした本を片付けながら盗み見て、香は柚介との間に距離を感じざるを得ない。
香が柚介と出会ったのは、もちろん学園に入学してからだが、今のような関係になったのは副業のときの柚介に会ったからなのだ。
二人の声をぼんやりとどこか遠くで聞きながら、香は本を片付ける。
「ありがとうございました」
眼鏡少女の小さな礼の声。
松崎というその少女はいかにも内気そうに俯いて化学準備室を去っていった。
「受験勉強ですかぁ…」
「松崎さんは見た目通り勉強熱心で感心してしまいますよ。うちのバイトもそれくらい頑張ってもらいたいものなんですが…」
み、耳が痛い。
香は顔をしかめて柚介から目をそらす。
柚介が大袈裟に息を吐くとほとんど同時に、再び扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのは織部順(おりべじゅん)だった。
香は順とクラスメートだが、柚介の副業絡みで仲良くなった。
順は香にたいして特別な感情を抱いているのだが、香はそれに全く気付いていない。
今日は準備室を訪ねる客が多いなぁ、と暢気なことを考えていると、
「早坂さん、高田先生がさがしてたけど…」
順の言葉を聞いて、香はすぐに真っ青になる。
「課題だしてなかったぁっ!」
香は半ば泣きながらそう言って、鞄をひっつかんで準備室を飛び出していった。
それはもう、扉を壊さんとするような勢いで。
廊下を駆ける足音が聞こえなくなるまで、順と柚介は勢いよく出て行った少女の元気の良さに呆然とした。
しかし、それはすぐに苦笑に変わる。
二人の男は、このあと起こる出来事を、
微塵も予想することは出来なかった。
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