*※涙花心中
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見世を開く時間になっても瞼を腫らしたままの臨也だったが、女将がそんなことを気に掛けるはずもなく、いつものように客を取らされた。
今日の客は、以前見た顔。常連ではないが、見覚えがあるということは以前にも臨也を指名した人ということだろう。
泣き腫らした顔の臨也に一瞬戸惑ったものの、彼はすんなりと臨也の部屋へ入ると襖を閉めた。
「どうしたんだ甘楽、その顔は」
「ちょっと、悲しいことがありまして」
誤魔化すように言って微笑んで見せれば、その人は深く探ることはせずに、そんな日もあるよなぁ、と笑って臨也を抱きしめてくれた。その優しさにまた泣きそうになって、臨也はきゅっと唇を結んで笑った。
そのまま情事に縺れ込み、ああ、こうして自分の体から静雄の記憶が薄れて行くのだとぼんやり思った。
「俺の事、覚えてるか?」
「もう忘れちまいましたよ、だって旦那、なかなか会いに来てくれないじゃないか、」
行為の終わった布団の中、素直にそう返せば、彼はあっけらかんと笑った。
「まぁ、そうだよな。まだ2度目だしな。前来た時は、遊郭の外の桜の話をしたっけか」
「あ…!あの時の…」
そうだ。陰間茶屋の少年に恨まれる切っ掛けと、桜の木の話をして静雄と出会う切っ掛けを与えてくれた人。
この人から良くも悪くも狂わされたのか、と彼の顔をまじまじと見る。
「もう桜も散っちまったな。本当に早い。」
「私の肌の桜、まだ散りませんよ。いつでも見に来て下さいな、…あ、でも、もう少しで…」
「ん?どうした?」
もう少しで、身請けされる。このまま、静雄が来なければ。
信じたい。信じていたい。遅くなってごめん、と謝って、そのまま連れ出してくれる力強い手を。
「…それより、また何か面白い話でもして下さいよ、旦那」
話を逸らすように言えば、そうだな、と一言呟き、それから神妙な面持ちになって言った。
「俺、実はお前に会いに来る前は、陰間茶屋で少年を買ってたんだ。10日前だったっけな、久しぶりに行ったら小刀突き付けられてよ、」
「…ええ、それで?」
思い出される少年に、こんなたらしが好きになるなんて、と僅かに不憫になりながら返す。
男は続けて口を開いた。
「もう俺を好きじゃないんだ、それならお前を殺して俺も死ぬ、って言われてな。思わず逃げ帰ってきたよ、」
「…そうなの、でも旦那が無事だったんなら良かったよ」
「で、そん時に言われたんだが、」
男はきょろきょろと周囲に人目がない事を改めて確認すると、甘楽に小さな声で問いかけた。
「あの見世の男は、桜の木の下で別の男と会ったるんだぞ、って言われてな。それって――」
ドキリとした。反射的に一瞬押し黙れば、悟られたのか、男は笑った。
「どうか、このことは秘密に…」
「そんな簡単に喋らないよ。安心しな」
朗らかに笑った男に、甘楽はほっと胸を撫で下ろす。
情夫か、まぁ頑張りな。その僅かに楽しげに紡がれた声に、胸が痛くなる。けれど、誰か一人でも、自分と静雄の関係を応援してくれる存在がいるという事実が胸に優しく染み込んだ。
柔らかな表情になった臨也に男は嬉しそうに笑うと、それから再び表情を引き締めた。
「あとな、それからの話で、つい一昨日なんだが」
「まだ何かあるの?」
首を傾げてみせた臨也に、男はそれもまた小さな声で言った。
「どうやら、そいつ、人を殺したらしい」
「…え…」
「しかも、夜中に抜け出して、大門の外でな。自分の客にも手を貸すように言いくるめて、大人数で一人を殺したんだとよ。酷い話だ」
確かに、逆恨みで俺を殺そうとした相手。それくらいしかねないと言えばしかねないが、本当にしたのだと思えば人はどこまで残忍になれるのかと思う。
「一歩間違えば、俺も殺されてたのかもなぁ。怖い怖い」
「本当、怖い話…」
静かに相槌を打つ。
臨也を包む布団は、二人分の体温でぬくぬくと温かい。けれど、冷たい風が背中を掠めた気がした。
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