*※涙花心中

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臨也はゆっくりと瞼を開いた。寝たふりをして閉ざしていた瞼は、窓から差し込む緩やかな月明かりすら眩しく感じた。
――桜の木の下、駆け落ちの約束をしたのはもう5日前。その日交わした言葉を、胸の中で繰り返す。

5日後、丑三つ時にこの場所で。

そう言って、その日は別れた。
そうして約束の5日後、正に今日の丑の時。
臨也はいつもの下駄を履き、冷たい風の中忍び足で外へ出た。
静かに、けれど急く気持ちを抑えられないまま、静雄のいる桜の木を目指して花街を抜けた。

そうして辿りついた桜の木。しかし、そこに静雄の姿は見当たらない。

「まだ…来てないのかな…」

冷える掌を擦り合わせ、着物の袂を胸元へ寄せる。
そう言えば、あの日。静雄と二度目に会った時も、寒い日だった。違うとすれば、頭の上の桜の木が蕾か葉桜かということと、臨也と静雄の関係くらいだろう。
あの日の自分が、今の未来を想像出来ただろうか。否、きっと出来なかった。願望から生まれた妄想だ、と冷笑すら零していたかもしれない。
でも、今は想像できる。妄想ではない、と思える。これから訪れる、二人の幸せな未来。
町の人が着る平凡な着物で、小ぢんまりとした家に二人で住んで。禿の頃に教えられた家事を思い出しながら洗濯や掃除をして、仕事から帰ってくる静雄を待つのだ。そうして帰ってきたら、僅かな稼ぎで手に入れた米やら、やっとの思いで育てた野菜やらで、二人で食事をして。腹一杯にはなれなかったとしても、そんな日常がきっと幸せだと思える。
だって、愛しい人といられるのだから。

小さく微笑む。二人の行く末は、きっともうこの桜に見せることは出来ないけれど。
どうか、遠くから見守っていて欲しい。

ふと、その桜の幹に見覚えのある簪が落ちていることに気が付いた。
桜の飾りの簪。それはつい5日前、臨也の道中の最中に自身の頭で揺れていた簪だ。静雄に渡されたものを見間違うはずがない。外した際に落としてしまったのだろう。
それを拾い上げて、臨也は再び寒空と寂しくなった桜を見上げた。

「シズちゃん…まだかな…」

風が吹く。残り少ない花びらは風に攫われ、深い藍色の空に吸い込まれていった。



「ちょっと、どうしたの甘楽、その顔!」

食事時になっても降りてこない臨也を心配して部屋まで来てくれた同じ見世の遊女に、臨也は小さく、何でもない、と答えた。
その目は泣き腫らして真っ赤で、何でもないはずがないのは一目瞭然だったのだけれど。

夜中、幾ら待てども静雄は来なかった。
ここから抜け出すにも、一人で逃げる意味などない。静雄の居場所も分からないのに、探してこの辺りを彷徨けばそのまま見つかって戻されるのが落ちだろう。
だから、日が登る前に見世まで戻ったのだけれど。
どうして。どうして来てくれなかったのだろうか。まさか今更裏切られるはずがない。…否、お前がそう思いたいだけだと言われたら、反論できないのだけれど。
…こんなに愛しかったのは、やはり自分だけだったのか。
そう思えば涙が止まらず、朝になった頃には目は腫れ上がってしまった。

「とりあえず、飯持ってきてやるから待ってな、」

臨也を気遣ってそう言って部屋を出ていった彼女に礼を言う事も出来ないまま、臨也は握り締めたままだった簪を指でなぞった。そうすれば、また涙が溢れてくる。
食事を持って部屋に戻ってきた遊女は、涙を零す臨也を痛々しげに見ながら傍らに盆ごと食事を置くと、そんなに泣くと干涸らびちまうよ、と小さく慰めの言葉を残して部屋を出ていった。

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