*※涙花心中

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同じ見世の女郎の一人が今日、身請けされた。甘楽よりもひとつ年下。顔はどちらかといえば平凡ではあったが、三味線や唄や踊りなど芸事の上手い遊女で、毎晩客の安定した女郎だった。
堅気と同じような地味な色の着物を着て見世の女郎に見送られていった彼女は心から幸せそうで、羨ましかった。
きっと、愛しい人に身請けされたのだ。想像するだけで、どれほど素敵なことかわかる。
もう、誰彼身体を触らせなくていい。愛しい人にだけ身を捧げればいい。子を孕めば、さぞ嬉しいのだろう。
…自分には、きっと一生関係のないことなのだろうけれど。

見送りが終わり、見世に戻る。
ふと気がつけば、この見世の女将が隣を歩いていた。目を向ければ彼女は、いいねぇ、と無感情な声で呟いた。

「身請けなんて望んでも虚しいけど、やっぱり憧れるのが性ってものなんだろうね」

「…そうだね」

小さく返せば、女将は小さく笑った。恨めばいいのか感謝すればいいのか分からない彼女の笑みに、甘楽は複雑な心境のまま微苦笑を漏らす。
女将は、男も一緒か、と何処か楽しそうに言い――それから、思い出すように口を開いた。

「美香がここを抜け出したのも、こんくらいの季節だったね、」

「…美香?」

ふと、引っ掛かった名前。甘楽が問い返せば、なに、覚えてないの、と驚かれた。
女将は懐古するように目を細めると、話しだした。

「美香はあんたが禿になった頃に連れてこられた子さ。あんたよりひとつ年下だったんじゃないかい?」

「…ああ、あの子……
どんな子だったっけ、俺覚えてないんだよね、」

どきどきと、胸が騒ぐ。
禿の頃から存在は知ってはいたが、気が合わないと察して近寄らなかった。彼女も、そんな俺に関わることもなかった。
美香。みか。

「あんたは人を覚えとく能がないのかい、うちの看板女郎についてた子だよ。背中に大きな傷があった子さ。顔は売れそうだったから引き取ったのに、――」

ふう、と溜め息を吐いた女将の、後の言葉は耳に入らなかった。
甘楽が禿の頃に入ってきた。背中に傷がある。美香、という源氏名。

「その美香って子、今どこに…!?」

思わず問いかければ、女将は再び溢した溜め息と共に言った。

「女郎として見世に出始めてすぐ、情夫が出来て逃げ出したよ。覚えてないかい?三年前くらいに近くの茶屋が出火元になった火事、あれは美香の仕業さ。
…まぁ結局、情夫の方が病で死んだのを追うように自殺したんだけどね。死んだ二人を見付けたときはまだ死後数日だったから分かったらしいけど」

何であの子を引き取ったんだか、と女将は溜め息と共に呟いた。


自らの部屋に戻った甘楽は、髪結いが来るまでの間ずっと、一人膝を抱えていた。
美香。みか。名前ごときを、どうして忘れてしまっていたのだろう。
背中に傷がある娘なんか、そんなに大勢いてたまるものか。源氏名と本名が近い女郎だって、多からずも少なくない。
もうこの世に居ないにせよ…まさか、そんな身近な人間だったなんて。

――静雄に、この事実を伝えよう。
もう彼女は死んだのだ、と。情夫を作り、かけおちしたのだ、と。
自分は、傍にいる、と。



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