*※涙花心中

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夜中、月灯りしか無い道を、甘楽は歩いていた。
ひぅ、と冷たい風が吹く。何か羽織るものを持ってくれば良かった。
しかし今更戻るのも面倒臭い。襟を崩れない程度に引き上げ袂を胸元に寄せると、垣根の隙間を潜って、三日前訪れた桜の木へ向かった。
…他ならぬ、先日の男に再び逢うために。

必ず会えるなんていう保証はない。けれど、何も行動を起こさずにはいられないのが自らの性分だ。やらずに後悔はしたくない。
という理由で、甘楽は再び大門の外へ抜け出していた。言い訳なら、教えてもらった桜の木が見たくて、と間夫のことくらいは隠せる。
…とは言っても、傍惚れにすぎないのだ。間夫なんて大人びた呼び方をするのも愚かしい。


そうこう考えているうちに、甘楽は桜の大木に着いた。
桜は甘楽の来なかった二日の間に蕾を増やし、眼を凝らせば柔らかな桃色の花びらがちらほらと咲き始めているのが見えた。

僅かな期待を込めて、辺りを見回す。…しかし、誰もいない。
否、でもあの日出逢った時間よりも僅かに早い。もしかしたらこの後現れるかもしれない。
…そう考えた自分に、甘楽は下唇を噛み締めた。なんて女々しい。きっと自分の身を置く山田屋の女郎よりも女々しいんじゃないだろうか。
――期待なんてするもんじゃないよ。外れれば肩を落とすのは自分なんだから。
はぁ、と溜め息を吐けば、白い息がふわりと舞った。

…しかし、この場を動き出せない自分がいた。
もう少しくらいなら。別に急ぐほど時間が無いわけではない。後朝の時刻までには山田屋で何事も無かったかのようにしていればいいのだし。
そうだ、桜を見ていよう。少しは暇潰しにもなるだろうし。少し寒いけれど、大したことはない。
掌を擦り合わせれば、微かに熱が生まれる。桜は暖かい色をしているのに、どうしてこんなに寒いんだ。


「みか…?」

不意に背後から聞こえた声に、甘楽は思わず振り返る。
その先にいたのは、待ち望んでいた彼だった。
――しかし、聞き覚えの無い女の名。
彼は甘楽に気がつき、記憶を手繰るように一瞬表情を固めると、それから僅かに申し訳なさそうに口を開いた。

「悪い。人違いだった。手前はこの前の奴だよな?」

「はい、お久しぶりです…、」

「久しぶりって、たった数日だろ」

苦笑して言った彼の顔が眩しい。
愛しい人を思う毎日は長いのだ。そんな三日は、何もない毎日の六日に思える。
覚えていてもらえたことが嬉しく、甘楽は冷えた手を握り締めてこっそりと笑う。
それを見た彼は、自分の羽織を甘楽の肩にかけてくれた。ふわり、と胸のときめく匂いが甘楽を包む。
出来る限り一緒にいたくて、甘楽は差し支えのないと判断した話を振った。

「貴方もこの桜を見に来たんですか?」

――すると、彼は僅かに間を置き、それから寂しそうに笑った。まぁな、と紡がれた声が、本心からでないことを察するなど容易く。
ずき、と知らないことだらけな胸が痛んだ。彼の呟きが頭に再生される。
“みか”。それは誰?

「…何方か、お探しですか」

甘楽の問い掛けに、彼はばっと振り返り…それから、小さく頷いた。
ずき、ずき、針が胸を刺す。

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