*※涙花心中

□1
1ページ/3ページ


走り慣れない身体は重い。
男の身体であることを感謝すべきなのか恨むべきなのか、逃げ続けられる自分の脚が煩わしい。このまま立ち止まればいいのに、それは恐怖さえあった。
…そもそも、自分は生きていたいのだろうか?今こうして走っているのも、あの女将のせいなのに。

――目の前に大木が見えた。まだ寒さの残る温度に負けず、ずっしりとした幹で地面を掴む大木は、その枝先に繊細な蕾をつけている。
明日にでも咲かすのだろうか?その逞しい指先に、絹のようにきわやかな花を。

――不意に地面が動いた。
…否、動いたのは下駄。傾いた下駄で地を踏めば当たり前のように体勢は崩れ、勢いよく転倒してしまった。
下駄の鼻緒が切れたのだ、と気がつき振り返れば、
――既に奴は目の前にいた。

振りかざされた小刀。
もう殺されるしかないのか。悟れば、喉の奥から空気が掠れて漏れる。

「遊郭の異端のくせに、陰間茶屋の…っ俺の客を取るから、だ…!」

ヒュ、と風切り音が空を裂く。鋭い切っ先が瞬きの隙すら許さず、意識を恐怖に突き落とした。


「手前、何してるんだ」


あまりに唐突だった。
恐怖から呼び戻され気がつけば、切っ先の近さに息を飲んで後退る。
ほんの、鼻先から数センチの場所で、刃は止まっていた。

目の前の陰間の少年は、夜目にも分かるほどに青ざめた顔で固まっていた。
そこでやっと、小刀を持つ手は止まったのではなく、誰かの手に止められたのだと気がつく。

「何を恨んでんのかは知らねぇけど、流石に人に刃物向けるのは駄目だろ」

少年の背後には、男が立っていた。
ここらでは珍しい、月の光を宿したような金の髪。研ぎ澄まされたような透ける茶色の眼は、鷹の瞳のように綺麗で。

「ッ――」

陰間の少年は恨みの中に恐怖を孕んだ表情でこちらを睨むと、彼の手を振りほどいて逃げるように走り去った。

ようやく恐怖から解放され、ほっと安堵の息を溢す。
それから助けてくれた男を見上げれば、先刻までの鋭さの消え去った、安穏な表情をしていて。
同い年くらいだろうか。そんなことを思いながら見ていれば、手が差し出された。

「怪我はねぇか?」

「、はい」

答えて、差し出された手を取って慌てて立ち上がろうとすれば、鼻緒の切れた下駄が足元に転がった。そういえば切れたんだった、と思い、それを拾い上げようとすれば。

「切れたのか」

自分より幾らか大きい彼の手が下駄を拾う。それを眺め、それから懐から出した手拭いを裂くと、器用な手つきであっという間に下駄を直してしまった。
手拭いは綺麗な桜色に染められており、友禅染だろうか、乱れんばかりの桜が描かれ舞っていた。勿体ないとは思ったものの、ほんの一部だけ華やかになった右の下駄は素直に嬉しい。

「これで大丈夫だろ」

適度に筋張った指が足に触れ、土に汚れた足袋を手で軽く払うと下駄を履かせてくれる。

「、ありがとうございます」

声が震えた。恐怖の名残か、触れた指の温度か、それは分からないけれど。

「気を付けろよ」

「はい、あの、ありがとうございました」

再び礼を言えば、僅かに間を置き、気にするな、とぶっきらぼうに返された。不器用な人なのか、無愛想な人なのか。
男は小さくお辞儀をすると、歩き去った。


.
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ