テキスト

□ラスト・ノートが消え去る前に
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※3巻の後、2年生の初夏ぐらい


夏休み前の期末試験を一週間後に控えたある日の放課後。
帝人と杏里はいつもの様に和やかに会話を交わしながら、帰路に付いているところだった。

「そうだ園原さん。明日の小テストってどこからだったっけ?」
「えっと…確かリーディングの57から62ページだったと思いますけど…」
「今回ちょっとページ数多いよね。期末前だからって、先生気合い入れ入れすぎだよ…」



ラスト・ノート
え去る前に




「あー…僕英語苦手なんだよね、正臣は英語だけは得意だったけど…」
「あ…」

“正臣”と言う人名に、何の気なしに交わしていた会話が急に途切れる。

正臣が忽然と姿を消してから、もう4ヶ月が経とうとしていた。こんなに正臣と離れて居るのは初めてだ。
小学生の頃に正臣が引っ越して行った時は、身こそ遠くにあったものの電話なりメールなりチャットなりで心はいつも近くにあった。
だが、今度ばかりは本当に離れ離れだ。

自分はメールアドレスも電話番号も変えていない。正臣から、いつ連絡が有っても良いように。
しかしこの4ヶ月、正臣から連絡らしきものが入った事は一度だって無かった。

去年のこの時期は、三人で一緒に居るのが当たり前だった。
夏休み前の期末試験に頭を悩ませ、お互い得意分野の勉強を教え合って。その時々に会話に紛れる正臣の寒いギャグと帝人のちょっと論点のズレたツッコミと杏里の控え目な笑い声を、日々ローテーションでそれぞれのアパートに響かせながら、極々一般的な楽しい高校生活を送っていたのだ。

しかし、今年はその笑い声が一つ、足りない。
2人はこの事実を断じて受け入れたくは無いが、今となっては正臣が居ない事が日常に成りつつあった。

「紀田くん、お元気で居るでしょうか…」
「…そうだね」

そしてまた訪れる沈黙。何か違う話題を、と、思考を廻らせていた時、ほんの少しだけ、帝人の鼻を掠めるものがあった。それは、――正臣が以前から愛用していたコロンの、香り。

(え、…な、んで…)

彼は流行りにも敏感な人だったから、あの香りももしかするとあの時流行っていた香水だったのかもしれない。
だとしたら他の人の可能性も大いに考えられるが、こうやって街中であの香りを感じた事は一度だって、無い。
…それに、万が一と言う可能性だって在る。

「あの…竜ヶ峰くん?」

いきなり立ち止まった帝人を心配するように杏里は視線を向けて来るが、今の帝人にはそんな事を考えている余裕は無かった。

「ごめん、園原さん!今日はここで!」
「え、あ…はい。また明日」

突然、普段の帝人からはなかなか想像が出来ないような声色で話掛けられて戸惑う杏里を尻目に、帝人は杏里の返答を最後まで聞くことも無く香りを追ってその場から駆け出していた。

しかし香りなんていつまでも残るわけも無く、ましてや人の身に付ける極々薄いもの。犬猫でもあるまいしそんなものを追っていけるはずは無い。
反射的に走り出してしまった帝人の衝動は、早くも行く当てを見失ってしまった。

もともと運動を苦手をしていた事もあり、距離としてはそんなに長く走っていた訳ではないのにすぐに息が上がってしまう。

苦しい。
でもこんな道の真ん中でしゃがみ込むわけにはいかない。

帝人はビルの間に挟まれた狭い路地裏に入り込むと、そのままコンクリートに背を預けずるずるとしゃがみ込んだ。
背中が、制服が汚れてしまうかもと一瞬頭を過ぎったが、そんな事はすぐさま頭の片隅に追い遣られる。

苦しい。
こんなに全力で走ったのはどのぐらいぶりだろう。
体育の授業でだってこんなに必死では走った事無いんじゃないだろうか。

酸素が…足りない。
…息、しなくちゃ。

「は…ぁ、はぁ…っ」

肩を上下させ、胸を膨らませて、必死に酸素を取り込もうとする。
薄暗い路地裏に、自分の呼吸音だけがいやに耳についた。ほんの少し向こう側ではあんなに大勢の人が行きかっていて、音が溢れかえっているというのに。

ほんの少し走っただけなのに、何でこんなに苦しいんだろう。あんまり運動しないからな…また体力落ちたんだろうか。
こんなんじゃあ、…また正臣に笑われちゃうな。


正臣。
正臣。
今何処に居るの。
何処に居たって元気でいてくれたら良いなんて、僕は言えないよ。池袋の街に不安がってた僕に、俺が居るから大丈夫だって言ったじゃないか。
何で何も言わずに行っちゃったんだよ。今言えない事ならすぐじゃなくても良いから。
戻って来てよ。
声が、聞きたい。
触れたいよ。

ねぇ、正臣…!


「はァ、…っ、はぁ…」

必死に酸素を取り込もうとしている口からその言葉が発せられる事は無い。
そして勿論、頭の中で繰り返される問い掛けに応えてくれる人など居るわけが無い。

苦しい…苦しいよ、正臣。
正臣…!

「まさ、お…み……っ」


帝人は制服の胸元を力任せに握り締めると、感情を押し潰したような声色で一言、そう呟いたのだった。



end.
(残り香にさえ縋り付く)



香水ネタその2でした。
五感の中でも嗅覚は一番本能に近い感覚とされ、記憶や思い出に結び付きやすいと言われています。だから、正臣の香りなんて匂ったら色々思い出しちゃうんじゃないかな…帝人。
因みに「ラスト・ノート」とは、色々ブレンドされた香水の香りの中で、最後に香ってくる香りの事です。

2010.7.30 響城そら


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