意味深な音楽
□意味深な音楽
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楽譜を購入してから、桜と会えない日々が続いた。日本音楽コンクール各部門優勝者が出演する、ガラ・コンサートのリハーサルで、桜が本格的に忙しくなったからだ。
牧も冬の選抜の神奈川予選があったため、桜の事を考える余裕は無かった・・・訳ではない。
練習の合間の休憩時に、ふと、桜の首を傾げる仕草を思い出す。
ピアノの音色が聞こえると、世界を変える様な桜の演奏が瞬時に思い出され、彼の耳の奥で鮮やかに鳴り響く。
練習や試合後、疲れた体をベッドに横たえ眠りに陥る刹那、いつも目蓋に桜のふわりとした笑顔が浮かび睡眠が浅くなる・・・結果、眠れない日々が続く。
牧が彼女を思い出さないことなど無かったのだ。
連絡先の交換はしたものの、もちろん桜からの連絡は無い。
牧としても、勇気を振り絞ることや、思い切りを発揮することが出来ず、連絡をとる事に躊躇いがある。
ただ携帯に登録した彼女の名前とメールアドレスや、ジャズスタンダードの楽譜を眺めるだけであった。
そして、夢の中で桜に逢える様に繰り返し祈る事を彼は覚えてしまった。
***
桜のガラ・コンサート当日、牧は県予選試合が入っていたため彼女の晴れ姿は見ることが出来なかった。
母と妹は牧を連れていく気満々だったが、事情が事情なだけに叶うことは無く、特に母はガッカリした様子だった。
牧が試合から戻ると、母と妹はガラ・コンサートから帰ってきていなかった。彼はこれ幸いと母の仕事部屋であるレッスン室に入る。
“Fly Me To The Moon”をピアノで弾いてみるために、だ。
YAMAHAとKAWAIの大きいグランドピアノが二台並んでいる。今は部屋の主がいないため、静寂に包まれている。ともすると、シン、という音が聞こえてきそうな程だ。
何となく母のピアノは使いにくく、いつも生徒が使用するピアノの椅子に座り、“Fly Me To The Moon”のページを開き、譜面台に置く。
シンプルなアレンジ
調性はa moll
リズムは三拍子
調号が無いだけ弾きやすい、か
ちゃんと読みやすい楽譜を選んでくれたんだ
牧は桜の配慮を感じる事が出来て頬が緩む。また、久しぶりにピアノの前に座ったことと、久しぶりに音符を見たことで、何となく楽しくなってきた。
まずはメロディだけでも弾こうと、楽譜から右手を離すと、楽譜が譜面台から落ちてしまった。
折り目が甘かったか・・・
床に寝転ぶ楽譜を拾い上げると、ある曲のページが偶然開かれた。
“Night & Day”
そのスタンダードのタイトルは、やけに牧の胸に突き刺ささり、しばらくそのまま動けなかった。
***
ふと聞き覚えのあるエンジン音が耳に届く。車で出かけていた母娘が戻ってきたらしい。牧は慌ててレッスン室を出てリビングに向かう。投げ出していたカバンに楽譜を隠し、ソファに座りテレビを点け見ているフリをした。
女二人の賑やかな声が玄関から近づく。
「ただ今!あー、久々の東京は疲れた」
「おかえり」
母親は視線を牧に注ぐと、あらいたのと声をかけ、デパートの袋をドサリとテーブルに乗せる。どうやらデパ地下で本日の夕飯を買ってきたらしい。
「紳一、試合はどうだったの?」
袋の中から、サラダや惣菜を取出しながら母親が尋ねる。
「優勝しました、よ」
牧はサラリと答えた。
「へー、やっぱり海南って強いんだね・・・って、サラダ買いすぎだよお母さんは」
希が呆れた声を出した。
「だって、父さんに紳一って大きい男が二人いるんだから、サラダは沢山無いとダメでしょ」
「でも、これ五千円ぐらいの量じゃない?」
量り売りで提供されているサラダが、パックに小分けされ、大きめの紙袋一杯に入っている。
「いーのいーの。今日は桜ちゃんの演奏が上手く行ったんだから、御祝儀みたいなモノよ」
牧が一番知りたい情報がやっと話題に上る。テレビを見ているフリをしつつ、意識を母娘に集中させた。
「御祝儀って何?意味不明・・・でもやっぱり桜さん上手だった!ドレスも素敵だったし」
希は思い出した様に自分のカバンに近付き、デジカメを取り出した。
「紳ちゃん、桜さんすーごく綺麗だったよ。今プリントアウトするから待っててね」
希はわざとらしい声色で牧に話し掛けると、ダイニング脇にあるパソコンに近づいた。
「アンタが桜ちゃんとどうにかくっついてくれれば・・・全く、何でバスケの試合が入るのよ」
母は忌々しそうに文句を呟く。牧は知らんぷりしていたが、内心冷や汗をかく。
・・・こりゃ、ピアノのレッスンの事は絶対言えない
万が一知られたら、母は舞い上がってとんでもない事をしでかしそうだ。
母はまた何かブツブツと独り言を続けていたが、食器や惣菜の温め等夕飯の準備に勤しんでいる。
「ほら、出来たよ!美人だよね〜桜さん」
希が写真を大きめに引き伸ばして牧に持ってきた。母も手を止めて覗きこむ。
「・・・あー、綺麗な子!本当に高値の花、高値の桜よね。アンタじゃ、海老で鯛を釣る様なモノか」
母はガックリと首をうなだれている。相変わらず息子の評価は手厳しい。
「お母さん、海老で鯛じゃなくて、ブラックタイガーで桜鯛を釣るって感じの方がリアルだよ」
「ブラックタイガー・・・紳一が黒いから?」
「ピンポーン」
母娘が牧を肴に話を始める。いつもの彼なら、うるさい、の一言ぐらい返すところだが、瞬きもせず写真を見つめている。
目が離せなかったのだ
桜の美しさから
彼女は大きな花束を抱えて、いつものふわりとした微笑みを浮かべている。その両隣には牧の母と妹が満面の笑顔で立っている。母はハロッズのスーツ、妹はラルフのワンピースで演奏会に行く人らしい服装だ。
そして、桜は演奏者らしいドレスだった。
胸までは体のラインにぴったりと沿っており、胸から下はギャザーフレアの柔らかな生地が広がっている。
ドレスの生地は、淡いベージュの中に、細かく色とりどりの花模様がちりばめられていて華やいだ印象を与える。
控えめな胸の膨らみがやけに牧の目に眩しい。
少しだけボディコンシャスなデザインのドレスは、桜の清楚さと艶やかさを見事に引き出していた。
牧は惚けた様に桜に見入っていたが、胸の鼓動だけは意志や主張を表すかの如く高鳴る事を止めなかった。
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