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□ダッチロール
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ハコとの思い出を振り返るとき、まず最初に浮かんでくるのは彼女の声だ。
僕は彼女の声が好きだった。
抑揚のない柔らかな声。
彼女は小さく囁くように僕を「優ちゃん」と呼んだ。
その声がたまらなく好きだった。
もう聞くことはできないけれど。


ハコと出会ったときのことはもう忘れてしまった。
大学のゼミでだったかもしれないし、友達の紹介だったかもしれない。
ただ、彼女が言った最初の台詞だけは覚えている。

「初めまして、矢島ハコです」
「ハコ?」

思わず僕が聞き返すと、彼女ははにかみながら
「葉っぱの子どもで葉子。よく読み間違えられるんです」
と答えてくれた。


僕らは恐ろしく話が合った。
好きな本や映画の話をたくさんした。
やっぱり内容は覚えていない。
あの頃の会話なんてそんなものだと思う。
砂糖菓子のように一瞬だけ甘く、すぐに溶け去る。


暑い真夏の日、僕とハコはデートした。
デートといっても、図書館で涼み、安いイタリアンを食べた程度だったと思う。
夕方、小さな公園で僕達は並んでベンチに座り溶けかけたアイスを舐めた。
アスファルトには昼間の火照りが残っていて蒸し暑く匂っていた。
夕陽に染まる空を飛行機雲が両断していた。
くねくねと蛇行する白い雲を見ながら、ふと僕は聞いてみた。

「僕ら、いつまでこうしてられるのかな」
「ずっとよ」

ハコは即答した。

「私はずっと優ちゃんと一緒に居たいな」

そう言って彼女は口をぎゅっと結んだ。
僕もそれ以上何も言わず押し黙った。
むんとした熱気が僕達を包んだ。


初めてのキスは、ハコとの同居が始まってからちょうど三ヶ月目の夜だった。
夜中に水が飲みたくなった僕は台所に行った。
喉を潤し、自室へ帰ろうとすると、微かにすすり泣きの声が聞こえた。
幽霊とか、そういった類のものは信じていなかったので迷わずハコの部屋の扉に手をかけた。
ハコは布団に包まって泣いていた。

「どうしたの、ハコ」

声をかけても何も返してこない。
途方に暮れた僕は、ハコの隣に座り込んだ。
しばらくすると泣き声が止まってきた。
さらに待つと鼻をすする音に混じってハコの小さな声が聞こえてきた。

「優ちゃん、私ね、本当はヨウコなんだ。ハコじゃなくて、ヨウコ」

ハコ≠ヘぐすりと鼻をすすった。

「高校の時、付き合ってた人にね、何の前触れもなく殺されかけたの。本当に普通の人だったんだけど、酔った彼に刺されたのよ」

ほらここ、と彼女は腕をまくって見せてくれた。
なるほど、確かに大きな傷痕がある、でも僕はそんなもの見たくなかった。

「とても怖かった。彼はヨウコ、ヨウコって言いながら迫ってくるの。包丁を持ってね。ヨウコ、好きだ、ヨウコ、ヨウコって」

僕は黙ってハコの話を聞いた。

「だから、優ちゃんといるとすごく楽だった。優ちゃんは私をハコって呼んでくれる。とても嬉しかった」

僕はハコを抱きしめた。

「ハコ、ハコ、ハコ」

小さく彼女の名を呟きながら。

「ハコ、ハコ、ハコ」

彼女は少し笑ったように見えた。

「優ちゃんは、本当に優しい人だね」

それから僕達は唇を重ねた。


桜が舞う春の終わり、ハコはあっけなく死んだ。
信号無視のダンプカーがハコに突っ込んできたそうだ。
「死んだ」という言い方は不謹慎かもしれない。
彼女は今も生きている。
生きているが死んでいる。
いわゆる植物状態だ。
最初のうちは毎日病院に通った。
眠っている彼女の耳元でハコ、と囁いてみたりした。
ハコ、ハコ、ハコ。
でも、彼女は起き上がらなかった。
額から鼻梁にかけての緩やかな曲線を眺めた。
色素の薄い茶色の髪が、病室に舞った埃が、春の光に透けて見える。
急に僕は悲しくなった。
もう二度と、ハコは目覚めないかもしれない。
二人で過ごしてきた日々を共有することはできない。
ぽろりと涙がこぼれて白いシーツに染みをつくった。
たまらなくなり、ハコの頬に触れた。
温かかった。
生きている。
ハコは生きているのだ。
唯、今は眠っているだけで。

動かない彼女を見るのが嫌で、僕は次第に病院に行かなくなった。
桜はもう全て散り終わっていた。



あれから三十年経った今も、僕はハコのことを忘れてはいない。
勿論、もう僕には妻もいるし子どももいる。
小さな会社も運営している。
けれども、忙しい日々の合間にふっと思うことがある。
あのハコと過ごした半年以上に大切なことなどあるはずはないと。
彼女は今も眠っているのだろう。
三十年前の僕との思い出を胸に抱いて。
少し笑ったような表情で眠っているのだろう。
昏々と眠り続ける彼女に、僕はそっと呼びかける。
ハコ、ハコ、ハコ。

蛇行した飛行機雲が青い空を横切っていった。

end
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