読み物(No.6)

□10.深い闇
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茜色の空を薄闇が徐々に侵食し、覆い尽くそうとする頃、ネズミは地下室へと続く階段を降っていた。



地下への入り口は疾うに闇に覆われていたが、ネズミは闇の中こそが安息とばかりにスタスタと歩を進める。



降るに従い、仄かな食べ物の匂いが鼻孔へと届く。



ネズミはその匂いにぴくりと右肩を震わせると、眉を寄せる。




地下室のドアの前に立ち、一呼吸置く。


最近は、この動作がすっかり癖になっていた。


ドアの隙間から洩れる、一筋の光。



それは、その先に待つものを意味していて、それがネズミの眉間の皺をより深いものにしていた。



開け放たれた先には、スープの煮えた匂いとストーブの固形燃料の匂いが混じりあい、油断すると安堵の息を尽きそうになる。



部屋の温もり、仄かな灯り。


安堵?…否、ソンナモノデアルハズガナイ。

ネズミにとっての安息の場は、闇。



闇の中だけ、そう思っていた。



ドアを閉め、後ろ手で鍵を掛ける。




侵入者を拒み、他を排除するために不可欠な行為。




部屋の中にいた小ネズミが、ネズミに気付き、声を立てて肩先へと駆け上る。

その声に、紫苑は鍋をかき回していた手を止め振り返る。



「おかえり、ネズミっ!」


ふわっと、花が開くような優しい微笑みと、言葉。




ネズミの中で、どす黒い深い闇がうねっていた。



「…あんた、いい加減に学習しろよ。鍵は掛けとけっていってるだろ?」



ネズミは、苛立ちを押さえながら、紫苑に近づく。




「ちゃんと掛けておいたよ。小ネズミ達がネズミがもうすぐ帰ってくるって教えてくれたから、さっき開けたとこだし。」



悪びれもせず、紫苑はネズミの肩先の小ネズミに指を伸ばし、耳の間を掻いてやる。


「…あんた、小ネズミの言ってることがわかるのか?」



紫苑は、きょとんとした顔をして小首を傾げる。


「何となくね。」



「何となくで、鍵開けてるのか?なんかあってからじゃ、遅いだろ?!」


ネズミの苛立ちを察した小ネズミは、素早く本棚の影に隠れる。



「…ごめん。」



紫苑は伏せ目がちにふっと溜め息を吐くと、顔を挙げネズミを見詰める。



「心配かけてごめん。」



当たり前の様に紫苑から発せられる言葉。


「別にあんたを心配しているわけじゃない。ここはおれの家だから、泥棒とかに荒らされたら困るんだよ。」




「…うん、そうだよね。もっと気を付けるよ。……スープ出来たよ。お腹、空いてるだろ?」



眉を寄せ、申し訳なさそうに呟くと、今にも消えそうな微笑みを浮かべる。



ネズミの中の闇は勢いを増し、荒れ狂う。



「…あんただけ先に食えよ。おれはシャワーを浴びる。」



ネズミは、眉間に皺を寄せ、紫苑に背を向けると浴室へと向かう。


これ以上、紫苑といることが苦痛だった。



共に暮らし始めて一ヶ月近くが過ぎ、紫苑は体調が戻るに従い、部屋の整理や、食事の準備を自らするようになっていた。



紫苑に云わせれば、住まわせてもらっているのだから、当たり前のことだと云う。



体力もつけられて、一石二鳥だと。



甘えているだけでは、生きていけない。


だから、今の自分に出来ることをする。


紫苑の行動は、生温い壁の内側に居たにしては至極真っ当なものだとは判っている。





だが、



‐‐‐紫苑を連れてくるべきではなかった。



そう考えてしまう…




もう何度、そう思ったのかわからない。




『ネズミが帰ってきた時、ご飯くらい出来てたら楽だろ?』



とても豪華とはいえない鍋の中身をかき混ぜながら、嬉しそうに笑っていた紫苑。



食事を用意し、自分の帰りを待つ存在。



当たり前のように開けられた鍵。



灯りの点る温かい部屋。



自分のことを好きだと…傍にいたいと乞う存在。



そのどれもが、ネズミの中ではあまりにも脆く崩れやすいものにカテゴライズされていた。




手を伸ばせば直ぐ届きそうな所にあるはずなのに、いざ伸ばせば指先が触れる前に空中で霧散してしまう‐‐‐



行き場を失った腕は、我が身を抱えるしか術はなく、深く暗い闇は一段とその深さを増す。




後、どのくらい耐えられるのか分からなかった‐‐‐




シャワーの温かい湯が、一気に温度を無くし、ネズミの体を打つ。


温度調節の効かないその冷たさが、ネズミの熱をすっかり奪いきる前に、再び熱を帯びる。




他人の心も、身体も壊れたシャワーの様に簡単に温度が変わる。
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