読み物(No.6)
□9.きみなしでは生きられない
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夢を見た‐‐‐
自らの腕を伸ばし、その指先でしっかりと掴んだ筈のその手は跡形もなく消えさり、その名を呼ぶ声は闇にかき消されどんなに叫ぼうとも決して届くことはなかった…
伸ばした指先が、空を掴んだ途端に目が覚めた。
頬に仄かな違和感を感じ、手をやると頬から耳朶に架けて濡れていた。
夢を見ながら、泣いていたらしい。
紫苑は掴み損ねたその腕で両目を覆うと、小さく息を吐いた。
なんて夢なんだ…
夢だと判っているのに、掴み損ねたその手の行方を求め不安に追い立てられるように、寝ていた床から身体を起こす。
夢…
只の悪夢。
紫苑は、ネズミが寝ているベッドの前に立つと、その身を屈める。
ネズミの肩は規則的に小さく上下し、その生を主張している。
生きてる…
紫苑は、大きく息を吐く。
ちゃんと…生きてた。
知らず知らずのうちに肩に力が入っていてようで、吐息と共にふっとその緊張が緩む。
紫苑はネズミが起きないように、出来る限り静かにベッドの横に跪くとシーツの上に顔を載せる。
先刻、急にネズミが意識を失った。
そのせいで、紫苑は今までに経験したことのない恐怖に襲われた。
身がすくみ、動けなくなる程の恐怖‐‐‐
思考が止まり、自分の為すべきことを見失った。
ネズミを喪うかもしれないという恐怖は、自身の喪失と変わらない…否、それ以上の恐慌。
紫苑も、今までにそれなりの喪失感を味わってはいた。
4年前はクロノスから、今はNo.6から追われた。
それまでの環境を奪われ、大切な人と袂を別つとも、それほど大きな喪失感に苛まれることはなかった。
それは、ネズミが居たから‐‐‐
他を失う代わりに、紫苑は心の奥底でずっと待ち望んでいた存在を手にした。
ネズミが隣に居てくれたからこそ、紫苑は耐えられた。
ネズミと他の誰かを比較することなど、意味も為さない程にその存在だけを欲していた。
きみという他者なしに、ぼくは生きられない。
先程告げたその言葉は、紫苑にとって何よりも勝る真実だった。
紫苑はネズミの呼吸を確認しながら、ゆっくりと瞼を閉じる。
きみを失った時、ぼくはどうなるんだろう…
‐‐‐狂ってしまう。
多分、きみの喪失にぼくは耐えられない…
あの瞬間、咄嗟に出たその思考は恐らく肯定するしかないと思える答え。
それは、きみを喪わないためになら、ぼくはどんなことでもするだろうという答えにも容易に繋がる。
ネズミの存在だけが、紫苑に生々しい感情を与え、生きる意味を、深く思考する大切さを教えた。
ネズミ…
本当の名ではない、その言葉を想うだけで体温が上昇し、感情が揺さぶられる。
ふと、白髪を優しく撫でられ、瞼を開ける。
間近にネズミの顔があり、心臓が大きく跳ねる。
「…何泣いているんだ?」
気だるそうに囁く。
寝起きの低く掠れた声‐‐‐
「…えっ?」
紫苑が慌て目尻に手をやると、泪が溢れていた。
「気付いてなかったのか…?」
その優しい表情に紫苑は戸惑う。
「…きみが、居なくなる夢を見たんだ。」
止まることを忘れてしまった泪が、シーツに小さなシミを落とす。
「きみの存在を確かめに来たんだ……」
ネズミはユルユルと瞼を閉じる。
「…バカだよな…どうしようもないほど…囚われてしまって…」
その言葉は、紫苑に言ったのか…それとも?
「ネズミ…?」
意味を捉えかねて、その真意を問うが、答えは返らない。
「不安なら、ここで寝ればいい。」
ネズミは、ポンと布団を叩く。
「いいよ。…ネズミ、疲れてるだろ?」
一時的とはいえ、意識を消失したその体調は万全とは言えないはず…
「…寒いんだよ。」
だから、暖をとらせろと腕を捕まれれば、紫苑は渋々とベッドへと潜り込む。
暫く布団の外に居たためか、紫苑の身体はすっかり冷えきっていた。
「あんた…いつからあそこにいたんだよ?」
紫苑の背中を抱え込むように、その腕の中に納める。
「…いつからかな?…そんなに前じゃないと思うけど。」
そういうと、紫苑はゆっくりと目を閉じる。
背中越しに、ネズミの確かな鼓動と温もりを感じ、不安に押し潰されそうな想いは知らぬ間に溶けていた。
「あんた、ほんとわけわかんない奴だよな…」
肩越しにいつものネズミの笑い声。