読み物(No.6)

□5.ネズミと紫苑の観察日記
1ページ/3ページ

フワフワと、淡い虹色を湛えたシャボン玉が漂う。



仔犬達は、競うようにシャボン玉に前足を伸ばしたり、鼻先でつついたりしてじゃれついている。



紫苑は、短毛の大型犬を洗いながら、仔犬達の様子を微笑ましそうに見ては、洗っている犬に話し掛け、クスクスと笑い声を洩らす。



一匹の仔犬が、シャボン玉に飛び付いた途端に、鼻先で淡い虹色が弾ける。


仔犬は、一瞬驚いた表情をし、一歩後ろに下がり鼻先を何度も振った。




「あはっ。びっくりしてる。あの顔見てよ、可愛いよね。」



紫苑の言うことに、大型犬も気持ちよさそうに『くぉん』なんて答えている。



身体中を丁寧に洗われて、恍惚とした表情を浮かべている。



イヌカシは、足りなくなった石鹸水を継ぎ足しながら、鼻を鳴らす。


変な奴……




ネズミと伴に暮らしているこの少年は、当たり前のように、犬達に話しかけている。


ちゃんと会話しているようで、意思疏通が図れているのがわかる。




最初から…そうだった。



暗闇の中、気を抜くと、飛び掛かりそうな勢いの犬達に対しても、怯むことなく、真っ直ぐに相対していた。



だからなのか、犬達に認められているっぽいのが、なんとなく気に入らない。



No.6の内側から来たという紫苑は、イヌカシにとって、今まで見たこともない珍獣のような不思議な存在―――



内側の奴は、皆こんなワケがわからない奴ばかりなのか?




否、…そんな筈はない。


イヌカシはあっという間に、自分の考えを否定する。



何故なら、自分はNo.6の内側の人間を少なからず知っているから。



あいつらは、西ブロックの人間を人間と見なしていない。



そんなことは、お勉強なんてしたこともないおれにだってわかる。


イヌカシは眉間にシワを寄せる。



が、紫苑は今までイヌカシが、取引をしてきたどんな奴等とも違っていた。



自分に対して、警戒心も見せず、堪に障るような言い回しもしない。



相手をさげずむことも、疎ましがる表情さえ見せない。



真っ直ぐに、同じ人間だと言った。



No.6の人間も、この西ブロックの人間も同じ人間だと。



なんの現実も判っていない、甘い戯言…




紫苑の言葉を聞く度に、胸の奥がチリチリと音をたてていた。


こいつは危険だと、本能が告げていた。



なのに、紫苑が浮かべる優しい笑顔と、イヌカシの母親の話を笑わずに聞いてくれたことが嬉しかった。



記憶の贈り物のことを教えてくれたことが、嬉しかった。



犬達としか共有したことのなかった優しい感情を、紫苑となら分け合える気がした。




それがどういうことかはわからないが、紫苑といるのは嫌じゃない。


‐‐‐そう思っていた。



そういう風に感じる自分が不思議だった。




天然で、人を疑うことを知らない、甘い綺麗事を当たり前のように口にする紫苑。



しかも、綺麗事を本心から言っているから質が悪い。



綺麗事では、腹も膨れないし、自分の身一つも守れない。




自分を守るのは、自分しかいない。



犬ならともかく、人間なんて信用できない。



犬達が、紫苑にはこの仕事が向いてると言うから、犬洗いの仕事を世話してやった。




ただ、それだけの関係。

それ以上も、それ以下も必要ない。



自分のテリトリーを荒らされるのは、趣味じゃない。



だから‐‐‐



ネズミが紫苑と暮らしているのが、不思議だった。


今まで、誰かの匂いが混じることなどなかったネズミ。



何となく、ネズミも誰も信用していないだろうし、他人と深く交じわる事など、ないと思っていた。





それなのに、何の見返りもなく、紫苑を助け、手元に置いて擁護している。



ネズミの何を知っているわけでもないが、言い表せないくらいの違和感を感じた。




ネズミは紫苑に対してだけ、感情をさらけ出していた。



壁の内側の人間とどうやって知り合って、手元に置くほど深入りしたのかが、不思議だった。




何も知らない紫苑は、ネズミにとって足枷にしかならない筈…



それなのに、受け入れるのは…




イヌカシは、紫苑の傍の瓦礫に腰をかけ、膝の上に頬杖をつく。



「…紫苑。」


イヌカシは、自分が疑問に思ったことをとりあえず、口にしてみることにした。



「何?」
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ