読み物(No.6)
□5.ネズミと紫苑の観察日記
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フワフワと、淡い虹色を湛えたシャボン玉が漂う。
仔犬達は、競うようにシャボン玉に前足を伸ばしたり、鼻先でつついたりしてじゃれついている。
紫苑は、短毛の大型犬を洗いながら、仔犬達の様子を微笑ましそうに見ては、洗っている犬に話し掛け、クスクスと笑い声を洩らす。
一匹の仔犬が、シャボン玉に飛び付いた途端に、鼻先で淡い虹色が弾ける。
仔犬は、一瞬驚いた表情をし、一歩後ろに下がり鼻先を何度も振った。
「あはっ。びっくりしてる。あの顔見てよ、可愛いよね。」
紫苑の言うことに、大型犬も気持ちよさそうに『くぉん』なんて答えている。
身体中を丁寧に洗われて、恍惚とした表情を浮かべている。
イヌカシは、足りなくなった石鹸水を継ぎ足しながら、鼻を鳴らす。
変な奴……
ネズミと伴に暮らしているこの少年は、当たり前のように、犬達に話しかけている。
ちゃんと会話しているようで、意思疏通が図れているのがわかる。
最初から…そうだった。
暗闇の中、気を抜くと、飛び掛かりそうな勢いの犬達に対しても、怯むことなく、真っ直ぐに相対していた。
だからなのか、犬達に認められているっぽいのが、なんとなく気に入らない。
No.6の内側から来たという紫苑は、イヌカシにとって、今まで見たこともない珍獣のような不思議な存在―――
内側の奴は、皆こんなワケがわからない奴ばかりなのか?
否、…そんな筈はない。
イヌカシはあっという間に、自分の考えを否定する。
何故なら、自分はNo.6の内側の人間を少なからず知っているから。
あいつらは、西ブロックの人間を人間と見なしていない。
そんなことは、お勉強なんてしたこともないおれにだってわかる。
イヌカシは眉間にシワを寄せる。
が、紫苑は今までイヌカシが、取引をしてきたどんな奴等とも違っていた。
自分に対して、警戒心も見せず、堪に障るような言い回しもしない。
相手をさげずむことも、疎ましがる表情さえ見せない。
真っ直ぐに、同じ人間だと言った。
No.6の人間も、この西ブロックの人間も同じ人間だと。
なんの現実も判っていない、甘い戯言…
紫苑の言葉を聞く度に、胸の奥がチリチリと音をたてていた。
こいつは危険だと、本能が告げていた。
なのに、紫苑が浮かべる優しい笑顔と、イヌカシの母親の話を笑わずに聞いてくれたことが嬉しかった。
記憶の贈り物のことを教えてくれたことが、嬉しかった。
犬達としか共有したことのなかった優しい感情を、紫苑となら分け合える気がした。
それがどういうことかはわからないが、紫苑といるのは嫌じゃない。
‐‐‐そう思っていた。
そういう風に感じる自分が不思議だった。
天然で、人を疑うことを知らない、甘い綺麗事を当たり前のように口にする紫苑。
しかも、綺麗事を本心から言っているから質が悪い。
綺麗事では、腹も膨れないし、自分の身一つも守れない。
自分を守るのは、自分しかいない。
犬ならともかく、人間なんて信用できない。
犬達が、紫苑にはこの仕事が向いてると言うから、犬洗いの仕事を世話してやった。
ただ、それだけの関係。
それ以上も、それ以下も必要ない。
自分のテリトリーを荒らされるのは、趣味じゃない。
だから‐‐‐
ネズミが紫苑と暮らしているのが、不思議だった。
今まで、誰かの匂いが混じることなどなかったネズミ。
何となく、ネズミも誰も信用していないだろうし、他人と深く交じわる事など、ないと思っていた。
それなのに、何の見返りもなく、紫苑を助け、手元に置いて擁護している。
ネズミの何を知っているわけでもないが、言い表せないくらいの違和感を感じた。
ネズミは紫苑に対してだけ、感情をさらけ出していた。
壁の内側の人間とどうやって知り合って、手元に置くほど深入りしたのかが、不思議だった。
何も知らない紫苑は、ネズミにとって足枷にしかならない筈…
それなのに、受け入れるのは…
イヌカシは、紫苑の傍の瓦礫に腰をかけ、膝の上に頬杖をつく。
「…紫苑。」
イヌカシは、自分が疑問に思ったことをとりあえず、口にしてみることにした。
「何?」