読み物(No.6)
□4.奇跡
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すぅすぅと穏やかな寝息が鼓膜に響く――
柔らかく、暖かな、そして一定のリズムで刻まれる鼓動…
ネズミは、今までに味わったこともないような、甘く優しい眠りから覚醒すると、自分を抱き締めたまま眠っていた少年から慌てて飛び退いた。
ベッドの上の少年は、変わらず寝息をたて、幸せそうに眠っている。
一瞬、何が起こったのかわからず混乱する。
が、すぐに自分がこの少年に…紫苑に助けられたことを思い出した。
もう、助からない…そんな考えを巡らせていた直後に出会った奇跡―
紫苑は、傷を負い、心身ともにボロボロの自分を当たり前のように受け入れ、手当てをし、さらに温かい食事までを与えてくれた。
自分を包む柔らかい、洗い立ての香りのするシャツ。
甘くて蕩けそうなココア…
沢山の新鮮な野菜や肉の入ったシチュー、贅沢にバターや砂糖を使ったチェリーケーキ。
フカフカのベッド。
そして、極めつけが当たり前のように、ネズミを抱き締めたまま眠っていた暖かな腕…
堪らなかった…
本来なら、決して手に入れることのできないものが、ネズミのすぐ傍らにあった。
泣きたくなるような、叫び出したくなるような、胸を突き上げてくる思いに一瞬、我を失いそうになる。
そんな自分を両腕で抱え込む――
足元に大きく口を開いた、どす黒い渦の中に落ちてしまいそうな錯覚に陥る。
誰も信じるな。隙を見せたら最後、身の破滅に繋がる…
幼い頃、業火に焼かれたあの日から、それは決して変わることなく、ネズミの中に確たる想いとして在った。
すべてを失ったあの日、信じることを棄てた。
誰かに手を差し出されたとしても、それは偽りのものと覚悟していた。
差し出された手が急に消えても、平気だった‐‐‐
『ほらね。やっぱりそうじゃないか。』
ただ、口許に冷ややかな笑みを浮かべるだけのこと。
自分以外を信じることの愚かしさをわかっていれば、足元を掬われることもない…
が、それでも、ネズミにとっての現実を忘れ、穏やかな寝息にもう一度寄り添いたくなる願望を覚えた自分に目眩がした。
何を考えているんだ…
理性とは違う想いに、戸惑いを覚える。
つい今しがたまで、紫苑の腕の中で、もう何年もしたことのないような深い眠りに落ちていた。
熟睡していた。
それが、どんな危険を伴った行為であるかということを、自分は認識していたはずだった。
深手を追い、一瞬死神の甘い誘惑に負けそうになったとはいえ、ネズミにとって、誰かが隣にいて深く眠ることなど、ありえないことであった。
しかし、そのありえないことを、少年はネズミに数えきれないほど与えてくれた。
血まみれのボロボロの服や躰を癒し、VCを埋め込まれ犯罪者のレッテルを貼られていると知ってもなお、何の疑いも嫌悪も示さなかった。
変な奴…
ネズミと、然して歳も変わらないであろう少年は、生きていく上で何の不自由も感じていないことを証明するかのような、柔らかな肌をし、穏やかさを持ち合わせていた。
痩せこけて、ボロボロのネズミとはまるで対極にあり、相容れるはずもない相手…
それなのに、そんな紫苑に救われた――
もしかしたら、否、もしかしなくても、ネズミを助けたために紫苑が何らかの処罰を受けるであろうことは、わかりきっていた。
見掛けだけお綺麗なこの都市が…あいつが、わかっていて見逃すなんてあるはずがない。
『理想の街だなんて思ってない』
内側にいながら、明らかに批判の目を持っていた紫苑。
利用してやろう。
そう思っていただけのネズミの心を、簡単に掻き乱した紫苑。
「…変な奴」
今度はポツリと声に出していた。
紫苑の腕に抱かれ、熟睡出来たためか、熱も多少下がり、躰が軽くなっていた。
窓の外はまだ、夜明け前の深い闇に包まれていた――
深い闇のほうが、ネズミにとっては動きやすい。
今のうちに、ここを立ち去らなければ、逃げ切れない。
理性がネズミに告げる。
多少なりとも、体力の回復したネズミにとって、No.6の包囲網などたかが知れている。
だから、今のうちに…
が、ネズミは紫苑の寝顔から目が逸らせなくなっていた。
自分には、二度と手に入らないと思っていたものを目の前にし、気持ちが揺れていた。