読み物(No.6)

□1.静かなる夜
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ふ…



『溜め息をつくな』


そう教わってから、今まで無意識についたことなどなかった溜め息を、また一つついてしまい、ネズミは眉間に皺を寄せる。

あいつが来てから、いつもの自分がどこかぶれ始めた。


『君に惹かれている』


真っ直ぐにネズミの瞳を見つめながら、その言葉の意味も重さもまるでわかっていないだろう相手は簡単にうそぶく。

自分以外を信じるな。関わり合いなど、すぐに断ち切れる関係以外持つ必要はない、そう思ってきていたし、今もそう思っている。


いや、それを信念としている。

生きることさえ諦めかけたあの日、奇跡のように窓を開け放ったあいつだけが、その信念を揺るがす。


認めたくない事実。


ごまかせるものなら、ごまかし、気付かない振りをしていたかった事実…


この西ブロックのことどころか、自分の生きてきたNo.6がどんなところかさえ、殆んど知らないような天然のおぼっちゃんだ。

お荷物以外の何者でもない。

だから、恩は返さないといけないが、それ以上の関係はいらなかった。必要がないと思っていた。
誰が生きようが死のうが、それはただの日常的な出来事。

ありふれた毎日の成り行き。

見知っていた人間が目の前から突然いなくなるなんて、当たり前すぎて、何も感じる必要がなかった。



なのに…あいつだけは、紫苑だけは目の前からいなくなると怖い。

そう感じてしまった。



『あなたとセックスがしたいの』

紫苑を熱い眼差しで見つめながら、友情でなく、愛情を求めた少女。

紫苑がその少女を助け出すために、自分の目の前からいなくなろうとした時、痛いほど分かってしまった。




地下室に微かに響く風の音。

古びれてはいるが、昔はかなりの調度品であったことを窺わせる椅子に腰を深く下ろし、肘をつく。


細く長い指先の上に、無造作に顎を乗せる。
反対側の指先で、弄ぶように椅子の縁をなぞる。

優美なまでのその仕草――



…あの時、この椅子の上で自分が何をされるのかわかっていて、敢えてそれを受け止めていた。



伏せ目勝ちに少し躊躇いを見せながら、ネズミの顔に近づいて来た紫苑。

『君に出会えてよかった』

かき消えそうなほど小さな、甘やかなその言葉と伴に重なる唇。

―別れのキス
あの時、紫苑がハムレットと本の陰に隠れた後、自分の頬に伝った熱いものの意味を噛み締める。



人との繋がりなどいらない。重くのし掛かる足枷をつけたいわけがない。



それなのに、まるで直接心臓を鷲掴みにされたようだった。辛いのか苦しいのか悲しいのか…混乱していた。

自分の中に、まだこんな感情があったということに戸惑う。


何も言わずに出ていこうとする紫苑に腹さえ立っていた。





―――囚われてしまった。




紫苑を失いたくない。



明確に浮かんできたその言葉にドキリとする。

もう、引き返せないかもな。

口の端が歪む。

でも、とうに覚悟はできていた。


紫苑のためにではない、自分のためにいくのだ。


No.6の息の根を止める絶好の機会だ。

回りの端役もしっかりと固め、地盤は造った。


だから、矯正施設へ行く。



ぎしり…ネズミは背もたれに身を任せ、天井を仰ぐ。

重厚な椅子が小さく音を立てる。
下唇を噛み締める。



が、ふと、あることを思い出し、口元が緩む。




『ここは、夏は暑いのか?』



天然のおぼっちゃんは生きて帰ってきて、ここで夏を迎える気でいるらしい。



それも、ネズミと伴に―…


だから、戻らないわけに行かない。


二人でどんなことをしても、生き残らなければならない。


紫苑が自分を必要だと言う度に、『信じない』そう言い続け、冷静さを装おってきた。



が、腹の奥底でなにかが疼く。

胸のどこからか何か熱いものが込み上げてくる。


古びれた舞台の上で、どんな盛大な拍手を浴びても得られないほどの快感。



紫苑の実直な眼差しと、飾り気のない素直すぎる言葉だけがそれを誘う。



「ばかか、おれは」




小さく呟く。

自虐的な言葉と裏腹に笑みがこぼれる。


明日のことどころか、今日の事さえ何も保証されない、できない状況で、遥か先の未来を夢見る。




贅沢すぎる夢…

僅かな、髪の毛一筋ほどもないかもしれない望みだか、死に向かう気はない。



生きるために戦う。

そして、紫苑と夏を迎える。
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