読み物(No.6)
□6.誘惑
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昼間にも関わらず、陽射しが差し込むことのない、薄暗い地下室‐‐‐
さらりとした聞き心地の良い声色が響く。
小ネズミ達の望むままにマクベスを朗読し、ゆっくりとそのハードカバーを閉じる。
小ネズミ達は、お礼を言うように紫苑の頬に鼻先を寄せる。
「…ふふっっ。くすぐったいよ。」
紫苑は、椅子から立ち上がると、本棚に本を片付ける。
今日は、犬洗いの仕事も入っていない。
ネズミも朝早くに出かけてしまい、手持ち無沙汰で溜め息をつく。
「……どうしようかな…」
昼下がりの午後、紫苑はポツリと呟いた。
‐‐‐陽射しが少し傾いた頃、雑多な市場では何かを煮たり、焼いたりしている食べ物の様々な臭いに溢れていた。
最初にここに足を踏み入れた時は、何の臭いかも判別し難いそれに正直驚いたが、今は、その臭いにさえ空腹を抱えた腹が鳴く。
馴れとは恐ろしいものだな…
そう思うと、少しばかり愉快になり、自然と笑みが溢れる。
その馴れは惰性とも諦めとも違い、紫苑が自ら望み、受け入れたもの。
西ブロックで生きていく上で、必要なもののひとつだから。
紫苑の、人とは違う髪や首筋にのたまう蛇のような痣に注がれる好奇な視線も、あまり気にならなくなった。
少しは図太くなったのかな、と一人呟いた。
時間を持て余した上、夕食の準備をしようにも、食材が心許なく結局、紫苑は買い物に出かけてきた。
いつもなら、イヌカシの所からの帰り道に買い物を済ますため、用心棒代わりの犬が付いてきてくれていたが、今日だけは一人雑踏を歩き、目的の店に向かう。
通い馴れた道。
馴れてきた事が、嬉しかった。
そう思っていた‐‐‐
紫苑は、ネズミに教えてもらったいつもの店で出来るだけきちんと吟味し、値切る事も忘れずに、少しばかりの野菜とパンを買う。
イヌカシからの報酬は、毎日の夕飯の買い出しで殆んど消えていた。
それでも、ネズミだけに頼ることなく、こうして働いた報酬で買い物が出来るということが、少し誇らしかった。
No.6にいた時も、働いてはいたが、ここまでの充足感を抱いたことはない。
一切れのパンが買えることの喜びが、いかに大切なものであるかを知ることが出来た。
誰に何を言われようと、それは紫苑にとって幸せの範疇に容易に組み込まれるものであった。
ただ……その様子を、物欲しそうに見ている視線が痛い。
それだけは、馴れない…否、馴れてはいけないものだとわかっていた。
だから、いつも買い終わった後は出来るだけ早く駆け出し、人影がまばらになるまで決して足を止めようとはしなかった。
「…っん…はあっ!」
やっと駆け出した足を休め、大きく息を吐く。
額に汗が滲む。
額に張り付く前髪を片手で掻き挙げる。
形のよい額に、普段なら肌寒く感じる風が心地良い。
暫く呼吸を整え、家路へと歩き出す。
それも、いつも通り。
が、今日は、護衛の犬がいない。
その事に、気が付くのは意外と簡単。
紫苑の風変わりな容貌は、西ブロックの界隈でも有名になりつつあった。
その事に気が付いてないのは、天然坊やの紫苑だけ‐‐‐
まばらに建つ、一見廃屋のようなあばら屋から、女が独り真っ直ぐに紫苑の方へと駆けてきた。
紫苑の側を駆け抜けようとした瞬間、肩が当たり、紫苑の持っていた紙袋から幾つかの野菜が転がり、女はきゃあっと小さく悲鳴を上げ、転んでいた。
「うわっ!すみませんっ!」
紫苑は、自分がひっくり返した野菜はそのままに、女の様子を伺う。
「…怪我とかしてないですか?」
膝を屈め、女の方へ手を伸ばす。
女は顔を挙げ、真っ赤な艶やかな唇でニコリと微笑む。
「大丈夫。あたしこそ悪いね。…あーあ、買い物が台無しだ。」
女は、近くに散らばった野菜を一つ拾い、紫苑の方へ差し出す。
紫苑は、女の優しさに照れくさそうに微笑む。
「こちらこそ。本当にすみません。…有り難うございます。」
野菜を手にしたその上から、女の手が添えられる。
「坊や、ここで逢ったのも何かの縁だよ。…遊んで行かないかい?」
女の指が、紫苑の首筋の赤い印をなぞる。
ふわりと香水の香りがした。
瞬間、紫苑は女を立ち上がらせると逃げるように手を退く。