小説

□弐弐
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記 弐弐


白菊は、凍りついたままの隆茂の上に雫を零しながら、ぐるぐると思考を巡らせていた。立ち去る直前、確かに隆茂の記憶を消したはずなのに、隆茂は白菊を抱き締めた。絶対離さない。そう言った。忘れていなかった。

「っ…どうして…」

凍ったままの隆茂はどうすればいいのだろう。このまま置いて帰る訳にもいかない。部屋に入れて帰る? 誰かがドアを開け、見つけてくれるのを待つ? 連れて帰る? 連れて帰ってどうする? 住処にずっと置いておく? そんなことしても何の意味もない。どうせ目を覚ますことはないのだ。それならいっそ燃やして、自分も死んでしまおうか。

「……燃やす?」

白菊は目を見開いた。いつかの兎が頭をよぎる。白菊が触ってしまったせいで凍った兎。近くで火を焚いたら、元気に動き出した。

「あ…!」

白菊は顔を上げた。これしかない。そう思った。隆茂を部屋の中に引きずり込み、隆茂がいつも冷房をつけるときに使っていたリモコンというものを手に取る。冬は白菊が来ているときは使っていなかったけど、確か暖房もあると言っていた。使い方は勿論分からない。しかも早くしないと凍ってしまう。白菊はほとんど躊躇わずに【運転切換】というボタンを押した。
【冷房】という表示が【暖房】に変わる。そして温度を目一杯上げた。リモコンが凍って動かなくなるまで。白菊にとっては熱い風が、室内に流れ込む。白菊は隆茂の部屋を出、しゃがみ込んでただひたすら隆茂が目覚めることを祈った。






しばらくして、中から微かに物音が聞こえた。そして足音がこちらに近付いてくる。白菊が振り返った瞬間、ドアが開いて白菊は押され、転んだ。

「わっ」
「えっ! 白菊!」

言ってから隆茂はハッとして口元を押さえる。白菊は目を見開いた。

「…貴方、私の名前知っていたの…?」
「え、あ、えっと、いや…うん…」

隆茂は目を泳がせながら言う。

「どうして…」
「あーいや、それは…」
「どうして言ってくれなかったの…!?」
「へ?」

隆茂は白菊を見た。

「貴方がどうやって私の名前を知ったのかは知らないけれど、知っていたのなら私が貴方の名前を知らないことだって気付いていたはずでしょう? どうして教えてくれなかったの? 私さっき、貴方の名前を呼べなくて本当に辛かったんだから…!」
「ご、ごめん…だって! 白菊が名前教えてくれないのは、僕に名前を知られたら消えてしまうのかもしれないとか思って…! そんなの嫌だから…」
「それは貴方の妄想よ! 名前を教えたって消えたりしないわ! 本当に貴方はどうしてそんな辺鄙な想像をするの?」
「じゃあ、なんで名前教えてくれなかったの!?」
「気付いてなかっただけよ!!」

あまりに間の抜けた答えに、隆茂は拍子抜けした。

「…なんだぁ…」
「なんだじゃないわ。名前を教えなさい」
「うん…」

隆茂は嬉しそうに笑った。そして白菊の目を見る。

「僕は、内田隆茂です」
「…たかしげ…?」
「うん。隆茂」
「そう…たかしげ…」

白菊は愛おしむようにその名を繰り返す。そして微笑んだ。

「たかしげ、体は大丈夫? 何ともない?」
「え? うん、全然平気!」

隆茂は笑顔で言った。白菊もそれに安堵する。

「そう…良かった…お願いだからもうあんなことはしないで…」
「…ごめん。でもどうしても君を、白菊を離したくなかったから」

隆茂は真剣な表情で言う。白菊は唇を噛んだ。

「…私触れられないのよ…?」
「それでもいいって何度も言ってるだろ」
「忘れた方がきっと幸せになれるわ…?」
「君がいないのに、幸せになんてならない」
「なんでそう言い切れるの…?」
「根拠なんてないよ。ただそう思うだけだから。もしまた白菊が離れていきそうになったら、また抱き締めるからね」
「…!」

白菊が目を開いて隆茂を見る。

「白菊が僕のこと凍らせたいんなら、いいんだけど」
「っずるいわ…」
「そんなことないよ」
「ずるいわ! そんなこと言われたら…離れられないじゃない」

白菊は困ったような顔で訴えた。隆茂は微笑んで、白菊の頭を軽く撫でる。

「離れなくていいんだよ」
「ちょっと、頭…!」
「大丈夫だよこれくらい」

隆茂が笑っているので、白菊は大人しく撫でられることにした。冷たいだろうが、凍りはしないと思う。

「…幸せだわ」

白菊が呟いた。

「へへ、僕もだよ。ねぇ…ずっと一緒にいてくれる?」
「ずっと?」
「うん、ずっと」
「そうね…そうなれたらいいわ」
「そうなるんだよ」
「ええ…けれど一つだけ聞いておいてもいいかしら?」
「何?」
「たかしげが死んだら…私も死んでいいかしら?」
「え?」

隆茂は手を離して白菊を見た。

「たかしげが死んだあとも、ずっと生き続けるのは嫌よ。これから先…貴方以外の人を、愛したくないの」

白菊は隆茂の目を見て言った。隆茂の頬が染まる。

「…なんか、恥ずかしいなそれ」
「私本気よ?」
「いや分かってるけどさ…」

隆茂は口元を押さえながら目を反らす。

「ねぇ、返事は?」
「えー、うん、好きにして、いいよ」
「何よそれ」

白菊は不満そうに言う。

「だって白菊の生き死に勝手に決めらんないよ!」
「…ありがとう。じゃあ、好きにする」

白菊は悪戯っぽく笑って、

「お母さんの気持ちが分かったわ」

と続けた。












ドアを開けて、肩を震わせる。

「寒っ」

あれから何度目の冬だろう。大学を卒業してから、少し広いアパートに引っ越した。
マフラーを巻き直して、廊下を歩き出す。すると、ドアが開く音がした。

「隆茂!」

呼ばれて振り返る。そこには、あのときから少しも変わらない、愛しい人の姿。

「いってらっしゃい」

彼女が笑顔で手を振る。だから近付いていって、その頬に口付けを落とした。彼女の頬がほんのり染まる。彼女にとっては真っ赤になっているのと同じことだ。
僕は微笑んで、手を振り返した。


「いってきます。白菊」






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