小説

□空想憐愛
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彼女の名前は宮下湖美といった。
名前の由来を母親に尋ねたことはなかったが、湖のように美しくだとか、そんなものだろうと思っていた。
高校2年生の夏までは。





−2014年7月3日−

警官は、必死に彼女を追っていた。

「待て! 宮下! 止まれ!」

そうしてようやく目撃情報から居所を掴み、彼女を見つけた。
しかし警官が止まれと言ったときには、彼女は既に立ち止まってこちらを見ていた。
そんな彼女に、警官は逮捕状を見せる。

「宮下湖美、久我善哉殺害の容疑で逮捕する」
「……久我先生が、殺されたんですか?」
「とぼけるな! お前がやったんだろ!」
「私は知りません」

彼女はゆっくりと、そしてはっきりと言った。

「とぼけるなと言ってるだろう! 話は署で聴く!」
「だから知らないって、」
「湖美!」

警官が彼女の腕を掴んだ直後、もう1人警官が走ってきた。
彼女の下の名を呼びながら。


そしてその姿を見た瞬間、彼女は言葉を失った。











『おおきくなったらけっこんしようね』
『うん。やくそくね』


そんな指切りをしたのはいつのことだったか。
今ではそんな約束など過去の話、クラスメイトに冷やかされてはただの腐れ縁だと主張する程度の仲だった。


−2007年7月2日−

「おーい湖美ー」

授業終わりのチャイムと同時に、彼は彼女に近付いていく。

「ん? 何さ」
「今の授業のノート見してー」
「何アンタまた寝てたの? 世界史毎回じゃん」

彼女は呆れた様子だった。

「だって清野の声聞いてたら眠くなんだもん。あの声は絶対魔力を持ってると思うんだ」

彼は自信たっぷりに言う。

「確かにあの声はちょっと眠くなるけどねぇ」
「だろっ!?」
「でも世界史面白いし」
「それはオマエがただ世界史好きなだけじゃん!」
「だって世界中を旅して旅行記書くのが私の夢なんだもーん」

そう言いながら、彼女は彼の頭にポンとノートを置いた。

「ん」
「サンキュー湖美ー!」
「これで最後だからね」
「え…」

彼は本気でショックを受けた表情をしていた。それを見て、彼女は笑った。

「じょーだんだって」
「な、なんだよー」
「おーい高山夫婦、教室でイチャイチャすんなって!」
「腐れ縁だっつってんだろうが!!」
「おー嫁がキレた」
「あぁ嫁ぇ!?」
「お、落ち着けって湖美」
「なんで!? 大体アンタが否定しないから夫婦って言われんだよ!? ね、ただの腐れ縁だよね!」
「う、まぁ…」


前言を撤回しよう。
腐れ縁だと主張するのは、彼女だけであった。




−2007年7月3日−

「……ヤバい、足りない…」

ファミレスから出てきて、彼は呟いた。手元の千円札と財布の中のそれを併せて数える。

「…19、20、21、22…あと5千円かあ…」

彼は溜め息を吐き、とぼとぼと歩き始めた。






−2007年7月4日−

家を出た彼女は、晴れ渡る空を見上げながら、大きく伸びをした。

「あ、湖美ー」

すると横から声がする。

「あ、地図。おはよー」

彼の家は彼女の家の3軒左にあった。彼は彼女に駆け寄ってくる。

「あの、湖美! 誕生日おめでとう!」

そう言いながら、彼は彼女に手を差し出した。

「覚えててくれたの…? あ、ありがとう!」

彼女も嬉しそうにして手を差し出した。彼は彼女の手に小さくて綺麗なビー玉を乗せた。

「…何、コレ」
「えと、た、誕生日プレゼント?」

彼は目を泳がせながら言う。

「え、本気で言ってんの…?」

彼女は呆れた様子で彼を見る。

「う、うん…」

彼は目を合わせようとしない。

「うっそぉー…地図ウチら、こっ高2だよ!? 高2にもなって、誕生日プレゼントがび、ビー玉ってアンタね…!」
「わ、分かってるよ! でも、金なかったんだよごめんっ」
「うー…金がなかったとしてもこれは流石にないと思うけど…オモチャみたいなやっすい指輪とかでも買えなかったワケ? こんなんあったってどうしようもないじゃん!」
「あーだからごめんって! 来年! 来年はちゃんとしたものプレゼントするから! ね?」

彼は顔の前で手を合わせ、彼女の表情を窺う。

「うーん…まあ、約束ね」

目を反らして少し不機嫌そうな表情をしたまま、彼女は掌の上のビー玉を握り締めた。






−2007年7月6日−

「いらっしゃいませー」
「あの、これ…プレゼント、で」
「かしこまりました。2万7千円になります」
「はい」




その夜、彼女は誰かの悲鳴で目が覚めた。ぼんやりしていたのでよく分からないが、男の声のようだった気がする。
そしてすぐ近くで、また悲鳴が聞こえた。今度は女の声だ。というより…――

「お姉ちゃん…?」

すると、彼女の部屋の扉が開いた。彼女の鼓動が速くなる。

「湖美…」

しかし入ってきた人物を確認すると彼女は安堵した。

「お母さん…」
「…こみ…」

彼女を呼びながら、母親は近付いてくる。

「お、お母さん…?」

様子が可笑しいことには、すぐに気付いた。
母親は右手に、包丁を持っている。鈍色に光るそれから雫が滴り落ちたのを、彼女は見た。

「お母さんっ…!?」

母親は不安げな顔で自分を見る彼女の左腕を持ち上げた。

「…… み …」
「…… え?」

そのとき、外でサイレンが鳴り響いた。






−2007年7月7日−

彼が外に出たとき、彼女の家の前には何台かのパトカーが止まっていた。
昨夜サイレンが聞こえたので何かあったのは知っていたが、まさか彼女の家だとは思わなかった。彼女の家の門には黄色い【立入禁止】のテープが貼ってあり、早朝だというのに人だかりができていた。

「あっあの、な何が、あったん、ですか…?」

近くにいた人に声をかける。彼の向かいの家の主婦だった。

「あら地図くん! 大変よ殺人なのよ! 奥さんが家族を殺したの!」

彼は頭が真っ白になった。

「は、こ、湖美は、ああの、湖美、は」

彼は主婦の肩を掴み、混乱したまま問いただす。

「え、あ、落ち着いて地図くん、大丈夫よ、湖美ちゃんは助かったの! 生きてるのよ!」

それを聞いて、彼は主婦から手を離した。一安心したように溜め息を吐く。

「……あ、でも…」




2007年7月6日夜、容疑者は夫と長女を殺害し、次女の左腕を切り落としたところで殺人及び殺人未遂の現行犯で逮捕された。
(当時の資料より)






−2007年7月13日−

彼は病院を訪ねる勇気がなかった。母親に腕を切られた彼女なんて、きっと痛々しくて見ていられない。
しかし、喩え彼女がどんな状態になったとしても、彼女に対する気持ちは変わらなかった。
彼はズボンのポケットに入れた小さな箱を握り締めて、病院へ入っていった。



「あの宮下湖美の病室って何処ですか?」

受付で彼は尋ねる。

「みやした、こみ…?」
「ほら、あの子よ! 母親に腕を切られた…」

奥からそう声がした。

「ああ、あの子! でもあの子はもうこの棟にはいませんよ」
「え…? なら何処に…」
「精神病棟ですよ」

彼は大きく目を見開いた。




【宮下湖美 様】というプレートのかかった部屋の前に立つと、中から物音がした。思い切って扉を開けると、プラスチック製のカップが床に落ちていた。中に入っていた飲み物が床を濡らしている。

「湖美…?」

恐る恐る呼ぶと、彼女はピクリと反応し、ゆっくりとこちらを向いた。ジッと睨むように彼を見る。
そして、ゆっくりと口を開いた。

「…だれ、あんた」
「…え?」

誰、と言われたのが、信じられなかった。

「だれ、だれ、だれ!!」

彼女は乱暴に叫ぶ。

「だっ、誰って…地図だよ! 高山地図!」
「たかやま、ちず…?」
「そう! 地図! 湖美の幼なじみだよ!」
「…しらない」
「…え?」
「しらない、しらない! たかやまちずって、わたししらない! いらない! あんたいらない! きやすくわたしのなまえをよぶな!」

彼女はまたしても乱暴に叫ぶ。それには彼もショックを受けた。

「そ、そんな、ちょっと待ってよ、知らないって…だって湖美…」
「こみっていうなあ!!! わたしをこみっていうなあ!!! かえれ! かえれ!」
「湖美…!」

彼は彼女に近寄る。彼女を抱き締めてあげたかった。それだけだった。
しかし彼女はそれに怯えた。包丁を持って近付いてくる母親を思い出して。

「いやあ!! くるな! くるな! ちかづくなあ!!!」

叫びながら彼女はベッドから飛び降り、彼に向かってきた。

「わっ」

彼を押し倒し、彼女は残された右手で彼の首を絞めた。

「こっ…み…やめ…」
「うるさい! こみっていうな!! ころす! ころされるならころしてやる!!」
「宮下さん!! 何してるのやめなさい!!」

彼女の叫び声を聞きつけた看護師が入ってきて、彼女を彼から引き離した。

「はなせ! はなせ! ころしてやる! ころしてやるんだあ!」
「落ち着いて宮下さん! もう誰もあなたを殺そうとしないから! 大丈夫よ!!」
「うそつくな! もうわたしはだまされない!!」
「嘘じゃないわ! ホントよ!」

看護師に押さえされながら暴れる彼女を、彼は床に座り込んだまま呆然と見ていた。

「ここはいいから、アナタは出なさい!」

看護師は彼に向かって言う。

「え…」
「早く!!」

看護師に言われ、彼は走って病室から出た。少し走ると彼はその場に座り込んだ。そして堰を切ったように泣き出す。



苦しかった。

呼吸ができなくて、苦しかった。

だけどそれ以上に、胸が苦しかった。

彼女を救うには、自分はあまりに無力だった。

彼女の心は、彼が思っていた以上に、壊れてしまっていた。


赤く腫れた目で虚ろに道を歩いていると、彼の後ろを見て眉をひそめる人々がいた。



 
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