小説3

□玖
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白菊は大学の側まで来ていた。
何故だか今日は一刻も早く隆茂に会いたいと思ったのだ。最初に来たときと違い、今日は随分静かだ。白菊は壁からそっと顔を覗かせて大学を見ていた。

「何してんの?」

突然後ろからそう言われ、白菊はビクッと肩を震わす。振り返ると、初めて大学の側まで来たときに隆茂と一緒にいた女がいた。






「…こんにちは。今西、さん…だったかしら?」

白菊は控えめに答える。

「そうよ。今西頼子。アンタは?」

頼子は強めの口調で言う。あまり白菊をよく思っていないようだった。

「私…奥入瀬、白菊というわ」
「白菊…、ふぅん。そんな見た目してんじゃん。寒くないの?」

頼子は眉をひそめて言う。

「あつ…寒くないわ」

暑いというと流石にまずいかと思い、白菊は言い直した。それでも頼子は眉をひそめたままだ。

「……そんな薄着で?」
「ええ。私は寒さには強いの」
「雪国生まれの人でもそんな薄着ではいられないと思うけど。その髪の色は? 染めてんの? 目は? カラコン?」
「ええと…から…こん? って、何かしら?」

白菊が首を傾げると、頼子は信じられないという表情をした。

「は? カラコン知らないの?」
「…ええ」
「…変なの」
「分かっているわ」
「…あっそ」
「あの人は?」

あの人と聞いて、頼子は一瞬誰のことかと思ったが、すぐに隆茂が浮かんだ。自分の夫でも呼ぶかのような言い方をされたことにイラッとする。

「…別にいつも一緒にいるワケじゃないし。今日は同じ授業ないから」
「…そうなの」

白菊は残念がっているようだった。その様子から、早く会いたいという想いが滲み出ている。

「アンタ付き合ってるの?」

頼子に問われ、白菊は顔を上げて目を見開いた。

「…え? ……付き合って、いないわ」
「じゃあ好きなの?」
「……好き?」

白菊はまるでその言葉を初めて聞いたかのように復唱する。そして考え込むように黙った。

「…何? まさか好きって言葉まで知らないワケじゃないでしょ?」
「いえ…言葉は知っているわ。言葉わね? けれど…意味がよく分からないの」
「はあ?」

頼子は再び眉をひそめる。

「ただ…一緒にいたら暑くなったり、離れるとき胸が痛かったり、あの人がいないと寒くなったりするわ」

白菊がそう言うと、頼子は更に眉をひそめた。

「…何ソレ、ノロケ?」
「…のろけ…?」
「好きってことじゃん」
「好き……?」

口にすると、頬が熱くなった。頼子に指を差される。

「顔、少しだけど紅い」

言われて白菊は頬に手をあてた。頬はやはり熱い。

「熱い…どうしましょう。私は何か病気なのかしら?」

白菊はオロオロしている。頼子は嫌そうに白菊を見ていた。

「病気? どうせ恋の病とか言うんでしょ」
「恋…!」
「あれ? 今西?」

そんなタイミングで隆茂がやってきた。白菊は頼子に声をかけられたときよりも大きく反応する。

「あっ今日はこっちまで来たんだ」

隆茂が白菊に気付いて微笑む。その微笑みに白菊は更に体温が上がるのを感じた。

「あ…ええと…」

白菊は後退り、そして振り返って逃げ出した。

「えっ!? あっ…」

すぐに追いかけようとしたが、もう白菊の姿はない。どうやら雪になって逃げたようだった。

「えっ? もういないの!? 足速すぎじゃない!?」

頼子は驚いている。

「今西は…あの人と何話してたの?」
「え? 別に、大した話じゃないよ。世間話」
「世間話…?」

鈍感な隆茂も、流石にその言葉には疑問を感じた。世間に通じていない白菊が、世間話などできるはずがないのだ。それでも隆茂はあまり追及しようとはしなかった。

「なんで逃げてったの? 白菊」
「しらぎく…?」

隆茂が振り返って頼子を見る。

「え? 何?」
「しらぎくって…何?」
「はあ? 何言ってんの? 名前じゃん。まさか…名前知らなかったとか言わないでしょ?」
「……知らなかった」
「えぇ!? 名前も知らないのに今までどうやって…」
「僕は君って呼んでたし、あの人は貴方って呼んでたし…あんまり違和感もなかったし…」
「……どんだけ鈍感なのよ」

頼子は溜め息を吐いた。

「…そっか…白菊っていうんだあの人…」
「そ。奥入瀬白菊だってさ」
「奥入瀬、白菊…綺麗な名前だな」
「あーはいはい。ノロケはいいわノロケは。あたし今から授業だから、隆くんは白菊ちゃんを追いかけてあげなよ。じゃあね」

頼子は手をヒラヒラさせながら去っていく。

「えっああ…うん」

隆茂は頼子の背中を見送り、家に帰ることにした。白菊に、山に来るなとキツく言われている。歩きながら隆茂は、名前のことを考えていた。
名前なんて知らなかった。自己紹介をするようなタイミングなんてなかったし、もしかしたら雪女である彼女には名前なんてないのかもしれないと、心の何処かで思っていたせいもある。しかし、出逢ってから3ヶ月近く経っているのに名前も知らなかったというのは、とてもおかしなことのような気がする。何故今まで、自己紹介しようという考えに到らなかったのか。
ふと思った。白菊は言いたくなかったのかもしれない。もしくは何か言ってはいけない理由があるのかもしれない。相手は雪女だ。有り得ない話ではなかった。

「だったら…突然名前を呼んだりしたらまずいか…」

隆茂は呟いた。名前を呼ばれてはもう会えない、なんて言われたら耐えられない。
黙っていよう。知らない振りをしていよう。白菊が自分から告げるまでは。

「大丈夫だ。今まで通り君って呼べばいいんだし」

隆茂はそう決めたのだった。
ところがアパートの前に着くと、そこには白菊がいた。

「あ…し…」

そして早速“白菊”と呼んでしまいそうになった自分に一瞬落ち込みかけた。隆茂は深呼吸をし、白菊に近寄る。

「…どうしたの?」
「…あの、私は」
「ん?」
「貴方のことが好きかもしれないわ」

真剣な表情でそう告げた白菊に、隆茂は表情を固めたまま黙った。



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