小説3
□陸
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通されたそこは、1Kの比較的小さな部屋だった。白菊の住処に比べると全然狭いが、暖かくて落ち着く。白菊が黙っていると、隆茂は振り返って
「…なんか言ってよ」
と言った。
雪妖記 陸
「何を言えばいいの?」
「なんか、感想? とかさ」
「感想っていったって、前例もないから比べられないし」
「人間の家に入ったこと、1度もないの?」
隆茂は部屋の中央にある机の側に腰を下ろした。
「ないわ。山を下りたのも何十年か振りなの」
白菊も机を挟んで隆茂の前に座った。
「…そうなの?」
「ええ。住処を訪ねるほど人間に執着したことがないの」
「…それって、」
「?」
隆茂は何か言いかけてチラッと視線を逸らした。
「あ゛ー!!!」
そして何かに気付いたように叫び声を上げた。白菊は隆茂の視線の先を見る。玄関からこちらまで雫がぽたぽたと列をなしている。
「あら」
「えっ、えっ? 君っもしかして…」
隆茂は机の下を覗く。白菊は草履を履いていた。
「どうしたの?」
「草履!」
「草履?」
「なんで草履履いてんの!」
「何故って…貴方がくれたんじゃない」
「いやそうじゃなくて…家の中では脱ぐんだよ!」
「……そうなの?」
白菊が尋ねると、隆茂は頷いた。白菊はそろりと草履を脱ぐ。
「…ごめんなさい。知らなかったの」
白菊は本当に申し訳なさそうに呟いた。
「いや…別に怒ってるワケじゃないんだ。ごめん」
「いいえ。私が悪いのよ。貴方が履き物を脱いでいるのを見ていれば気付いたことだもの」
そして白菊は突然着ているシャツを脱ぎだした。あまりに突然で、隆茂は慌てて目を隠す。
「えっちょっ、何してんの!? ふ、服まで脱げとは言ってないよ!!?」
「…いえ、濡れたところを拭こうかと」
「なんで服で!? いっいいよ別に!」
「拭けるものが服しかないわ」
「だからってそこまでしなくていいよ! 大丈夫だから僕拭くし!」
「そんなの悪いわ。濡らしたのは私なのだから」
「だったら雑巾! 雑巾貸すから! 服着てホント頼むから!」
隆茂に必死に説得され、白菊は脱ぎかけた服を着直した。
「…着たわ」
隆茂が目を隠していた手を下ろし、溜め息を吐いた。立ち上がって雑巾を取りに行く。
戻ってきた隆茂は白菊に雑巾を手渡した。
「…お願いします」
「ええ」
「あと、草履は玄関に置いてきて」
「げんかん?」
「僕が靴置いてるとこ」
「ああ、分かったわ」
白菊は草履を持って立ち上がり、玄関へ向かった。草履を隆茂の靴の横に置くと、そこから床を拭き始める。隆茂はそんな白菊を目で追っていた。
やがて床を拭き終えた白菊は申し訳なさそうな顔をして隆茂を見た。
「…どうかした?」
隆茂が尋ねる。
「…ごめんなさい。雑巾が…」
「雑巾が?」
「凍ってしまったの」
隆茂が見ると、確かに雑巾は凍っているようだった。
「……ホントだ…」
「ごめんなさい。私…」
「いいよ。気にしないで。外に干しとけば溶けるよ」
隆茂は白菊から雑巾を受け取り、ベランダに出た。凍ってしまっていて曲がらないので洗濯ばさみを使って干す。部屋に戻ると、白菊は暗い表情をしていた。
「そんなに落ち込まないで。大丈夫だから」
「……」
「なんかあったかい飲み物入れようか? あっ冷たい方がいい?」
隆茂が言うと、白菊は首を横に振った。
「入れ物が凍るわ」
「大丈夫だよ!」
「何故そう言い切れるの?」
「……」
「…帰るわ」
白菊は言って立ち上がった。
「えっ…っと待ってよ! なんで!」
隆茂も慌てて立ち上がりかける。
「やはり私は来るべきではなかったわね」
「なんでだよ! そんなこと言うなよ!」
「だってそうでしょう? 私達は生きる場所が違い過ぎるのよ」
「そんなのどうにでもなるよ!」
「なる訳ないでしょう!? 貴方は馬鹿!?」
「でも、僕は君と一緒にいたいんだ!!」
白菊は目を見開いた。
「……一緒、に?」
隆茂は頷く。
「私、と…?」
隆茂はもう一度頷いた。
「生きる場所とかどうでもいい。一緒にいたいって気持ちだけで、どうにでもなると思うんだ」
「……」
「君は、そうは思えない…?」
白菊は首を振った。
「私だって、貴方と一緒にいたいわ。それだけで…それだけでどうにかなるのかしら?」
「なるよ! 絶対!!」
隆茂は机を軽く叩き、白菊に座り直すよう促す。白菊は花のように笑い、隆茂の前に座り直した。雪の中に静かに咲く、三角草のような微笑みだった。
「なんか飲む?」
再度問いかける隆茂に、白菊は頷いた。
「…水」
「えっ水でいいの? 他にもあるよ? 紅茶とか」
「…こーちゃ…?」
「煎れてみる! 待ってて」
隆茂は立ち上がってキッチンへ向かう。やがて美味しそうな香りが室内に広がってきた。
「いい香りね」
「でしょ?」
「ああ、私のは割れない入れ物に煎れてくれる? …凍って割れたら怖いから」
「…分かった」
少しして白菊の前に差し出されたプラスチック製のカップには、茶色をした液体が湯気をたてて入っていた。
「…とても熱そうだわ」
「君って猫舌?」
「猫? 私は猫ではないわ」
「…そうじゃなくて、熱いの苦手かってこと」
「…そうね。苦手だわ。人間よりも体温が低いし」
「そっか…じゃあ、氷入れよっか」
「氷があるの?」
立ち上がりかけた隆茂の言葉を聞き、白菊は目を輝かせた。
「え、あー、いや、多分君が期待してるようなのじゃないよ」
「…そうなの?」
隆茂は再びキッチンに向かい、冷凍庫から氷を2つ取ってきた。それを白菊のカップの中に入れる。白菊はそれを覗き込んだ。
「紅茶が熱いから、すぐ溶けちゃうよ」
「……氷ってそんなに脆いものなのね」
白菊は氷を見つめたまま呟いた。
「そういうものだよ」
「……そう、ね」
「どのくらい冷めたら飲める? まだ氷いる?」
白菊はそっとカップに触れ、温度を確かめる。
「…もう少し欲しいわ」
「おっけー」
隆茂は再びキッチンへ行き、氷をケースごと持って戻ってきた。白菊は目を輝かせる。
「結構沢山あるのね」
「こんなもんだよ」
「そう?」
隆茂が紅茶へ氷を入れると、氷はゆっくりと溶けていく。
「どう?」
5個目を入れたところで、白菊はようやく「もういいわ」と言った。
「あ、ストレートで大丈夫?」
「すとれーと…?」
「あの、えっと、ミルクとか入れなくていい?」
白菊は眉をひそめて隆茂を見ていた。
「…よく分からないから、とりあえずこのままで飲むわ。それでもいいんでしょう?」
「うん、勿論! 苦かったら言って」
白菊はゆっくりと紅茶を一口飲んだ。隆茂はそんな白菊を見つめている。
「…どう?」
「…美味しい」
「よかった!」
隆茂は安心したように笑った。暑い夏に太陽に向かって咲く、向日葵のような笑顔だった。
漆へ