小説3

□壱
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「死ぬほど寒い」

貴方達ならそう言うだろう。
それでも私にとっては過ごしやすい気温だった。マイナス30度。“極寒”? そんなことないわ。薄着で十分だもの。“人間じゃない”? ええ、そう。私は人間じゃないわ。貴方達が――そう、“雪女”と呼ぶ類の生き物なの。





彼女は奥入瀬白菊といった。
白髪、グレーの瞳、雪色の肌。世間一般には雪女と云われる生き物である。
そして白菊は今、目の前の状況をどうしようか考えていた。
彼女が住処としている洞穴の前に、男が倒れているのだ。

「……」

白菊は拾ってきた木の枝で男の頬を突つく。このままでも入れなくはないが、どいてもらわないと不愉快だ。

「…おい」

白菊は凍るような凛とした声で言った。

「…ん」

突ついていると、男が呻いた。白菊は男の持っているリュックサックの中からロープを取り出し、両手首に括りつけて住処の中へ引きずっていった。枝を適当に拾ってきて、火を熾してやる。住処の中に置いていた藁を被せてやった。火の近くで眠っている男を、白菊は遠くから見ていた。
しばらくして男は目を覚まし、ゆっくりと起き上がった。

「…ここは…?」
「起きたの?」

男は驚いて白菊を見る。

「体調は?」
「…少し、足が…痛い、ですけど…」
「壊死しかけていたのね」
「え、し…?」
「足が死ぬってこと。人間は部分部分でも死ぬのよ?」
「……」

それくらい知ってはいただろう。しかし自分がそうなるとは考えていなかったのか、男の顔は青ざめていた。

「足が死んだら、貴方もう此処から帰れなくなるのよ」
「…君が、助けてくれたんだよね?」
「……別に」

白菊は男から目を反らす。

「別に?」
「別に助けようとした訳じゃないわ。貴方が私の住処の前に倒れていて邪魔だったから中に入れただけよ」
「…君、ここに住んでるの?」

男は信じられないという表情で白菊を見た。

「そうよ?」
「そ、そんな格好で?」

男はようやく意識が完全に回復したようで、白菊の格好を見て目を丸くした。ちなみに薄い長袖のシャツに長めのスカート、色は両方白だ。

「? そうだけれど」
「さっ寒くないのっ!?」
「…暑いわ」

白菊は眉をひそめて言った。

「あっ、暑い…?」

男は言葉を失う。

「だって火を焚いているじゃない」
「た、焚いてるからって…」
「暑いわ? 火ってあつい」
「だから…っ、確かに、火は熱いけどっ…あーなんて言ったらいいんだ…そんなに離れてたら熱くもないだろっ!? むしろ寒いよ! しかもそんな薄着で!」
「…そんなに薄着かしら? でもこの季節は、これで十分過ごしやすいわ」
「はっ……? それじゃ、まるで…!」
「何が言いたいの?」

何と言われるか、ある程度察しがついていた。

「……人間、じゃない」
「ええ、そうよ?」

だから、白菊は即答だった。即答され、男は僅かに表情を動かす。

「……そうよ…?」
「ええ。私、貴方達で云う雪女、そういう生き物なの」

隠そうともせずに白菊は言う。男は言葉を失った。

「ゆ…き、おん、な…?」

男がやっとの思いで紡いだ言葉に、白菊は頷く。

「雪女。雪妖族の中でも人の女の姿をしたものがそう呼ばれているわ」
「……火に近付くと、溶けたり、するの…?」
「? 別に溶けたりはしないわ。とてもあついけれど。人間は私達にそんな辺鄙な印象を持っているの?」
「…いや、近付きたがらないから、ちょっと思っただけで…」
「あついから寄りたくないだけよ。それに、私が近付くと貴方また冷えるわよ?」
「…でも、助けてくれたんだよね? ありがとう」

男が柔らかい笑みでそう言うと、白菊は自分の体温が少しだけ上がるのを感じた。男から目を反らす。

「…足が回復するまで、動かない方がいいわ」
「え?」
「もしその足でこの雪の中へ出ようものなら、今度こそ貴方は死ぬわよ?」
「でも…」

男はとても言い辛そうに呟く。白菊はその様子に少しイラッとした。

「何よ?」
「…いて、いいの? 迷惑なんじゃ…」
「別に迷惑だとは思わないわ。そんな足で外へ出てその辺りで死なれる方が迷惑よ」
「…ありがとう」

男はまた優しく笑った。

「…貴方、1人でこの山へ来たの?」
「……いや、大学のサークルの仲間と…6人で」
「大学…さーくる…? で、何故貴方だけがそこで倒れるようなことになってしまったの?」

意味の分からない言葉は聞き流すことにした。ここ何十年かは人間に遭っていないので、知らない単語が増えているだろうということくらい容易に想像がつく。

「下山するとこだったんだけど…登ってくるときにはあった道が雪で覆われてなくなってて、それから、酷い吹雪で仲間とはぐれて、うろうろしてたら洞穴が見えたからとりあえず入ろうとして…」
「辿り着く前に力尽きたということね」

白菊が言うと、男は頷いた。

「ごめん…今考えたら、人の家に勝手に入ろうとしてたってことだよね…」
「別にいいわ。こんな所に誰か住んでいるかもしれないと思う人間なんてそういないでしょう?」
「そうだけど…」
「それから貴方、先程から馴れ馴れしい口調で話しているけれど、私は貴方よりもずっと年上よ? 江戸幕府というものが世を治めていた頃から生きているもの」
「江戸時代から!?」
「そう言えば、最近ではそう呼ばれているのだったかしら? まあ、別に今更口調を直す必要はないけれど。年上だということを知っておいて欲しかっただけだから」
「…はあ」

呟きながら男は頭の中で歳を計算していた。200歳は軽く超えるということだ。逆に敬語を使う気も起きないほどの年の差だった。



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