小説2
□青の記憶
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Magic Mirror...
『大丈夫。もうすぐ、もうすぐよ。もうすぐ岸に着くから』
水の中で、誰かが俺を抱いて泳いでいた。うっすら目を開けると、目の前に真っ青な髪が見えた気がした。
−青の記憶−
最初は死んでいるのかと思った。しかし触れてみると温かく、彼はホッと一息吐いた。
「あの、大丈夫ですか?」
肩を揺すって呼びかける。
「…ん」
少女は目を開けた。白く、まるで天使のような可愛らしい少女だ。瞬きをして、じっと彼を見る。
「え?」
彼が戸惑っていると、少女はぱあっと花のような笑みを浮かべた。
「あなたです!」
少女はぎこちない日本語で言う。
「えぇ? 何が…」
「わたしをそばにおいてください!」
「…は?」
彼女は蒼子と名乗った。「苗字は?」と訊ねたが、彼女は首を傾げるだけだった。仕方ないから、これから人には“水田蒼子”と名乗るようにと言っておいた。
「あなたのおなまえは?」
見たところ日本人のようではあるが、蒼子の日本語はやはりどこかぎこちなかった。
「水田桜馬」
「みずたおうま?」
「うん」
「おうまさんっ?」
「いや、お馬じゃないよ…」
蒼子を家に連れて帰ると、桜馬の両親は彼女を温かく迎え入れた。桜馬の父親・水田哉斗は大企業の社長で、家はとても大きかった。桜馬もその会社で働いているらしい。ゆくゆくは社長になるのだそうだ。
「この間お手伝いさんが1人辞めちゃって、ちょうど部屋が1つ空いてたの。だからそこを使ってね」
桜馬の母親・水田菘に通されたのは、お手伝いさんに貸していたにしては広く、立派な部屋だった。それだけで、彼女が優しい人間だということが分かる。
「ありがとーございますー!」
蒼子は楽しそうに走っていってベッドにダイブした。そしてそのまま動かなくなる。
「あ、蒼子ちゃん?」
菘は不安げに呼ぶ。すると蒼子はくるっと仰向けになって
「ふあー!」
と言った。
「ふかふかー!」
「気に入った?」
「はーい!」
「よかった」
蒼子は楽しそうに笑っていた。それを見て菘も微笑んだ。素性も分からない蒼子だったが、菘は早くも彼女を娘のように思っていた。
「あーおこ!」
「あ! おーま!」
ドアの近くから桜馬の声がすると、蒼子はガバッと飛び起きて駆け寄った。
「おーま! あのね、べっどふかふかなのです!」
「よかったなー蒼子」
「はいっ」
桜馬が頭を撫でてやると、蒼子は嬉しそうにしている。
「ふふふ、あなた達ホントの兄妹みたいね」
「ちがいます! わたしおーまとけっこんするんです!」
蒼子は桜馬に抱きつく。桜馬と菘は驚いて顔を見合わせる。
「蒼子ちゃん…? 自分が何言ってるか分かってる?」
「はい」
蒼子は自信たっぷりに頷いた。
「蒼子…本気なの?」
「はい! わたしおーまとけっこんするためにきたんです!」
蒼子が嬉しそうに言うと、桜馬は困ったような顔で笑った。
それから、蒼子は家事の手伝いを始めた。掃除機をかけたり、皿を洗ったり、お手伝いさんに紛れて作業していると、よく菘に見つかった。「蒼子ちゃんはしなくていいのよ」と菘は言う。しかし蒼子は聞かなかった。菘は蒼子の退屈しのぎにと、書庫へ連れて行った。まるで学校の図書室のような広さの書庫には、様々な種類の本が所狭しと並べられていた。
「おー! ほんいっぱいです!」
蒼子は目を輝かせて書庫に飛び込む。
「どれでも好きな本を読んでいいからね」
「わー! すずなさんありがとーございます!」
蒼子は楽しそうに本を漁る。しかしタイトルがどれも読めない。というか、文字が読めない。蒼子は沢山ある本のうち1冊を手に取る。表紙には、下半身が魚のような可愛らしい女の子の絵が描かれている。
「かわいーです…」
蒼子は呟いた。
その夜、蒼子は桜馬の部屋を訪れた。ドアをノックすると、返事がくる。蒼子はドアを開けた。
「おーま?」
机に向かっていた桜馬は、蒼子の声を聞くと振り返った。
「蒼子!」
「いまいそがしーですか?」
「大丈夫だよ。どうした?」
「あの…」
蒼子は遠慮がちに本を差し出した。先程書庫で見つけた本だ。
「ん? 人魚姫…?」
「よんでほしーのです」
「いいけど…自分で読めないの?」
蒼子は頷いた。
「なんてかいてあるかわからないのです」
「字…読めないんだ…よし、おいで」
桜馬は自分の膝に座るように蒼子を促した。蒼子は少しむっとする。
「おーま、わたしこどもじゃありませんよ」
「でもこの方が絵も見れるし」
蒼子は大人しく桜馬の膝に座ることにした。
「おーま、にんぎょひめはどーしておーじさまにすきになってもらえないのですか?」
読み終わったあと、蒼子は桜馬に問いかけた。
「王子様にとって人魚姫はね、大切な妹みたいな存在だったんだよ」
「それはすきではないのですか?」
「…うん」
「おーまは?」
「え?」
「わたしいもーとじゃないですよね? おーまはわたしすきになってくれますよね?」
桜馬は返答に困った。彼らと同じように、桜馬にとって蒼子は大切な妹だ。言ったらどんな顔をするか。そう考えたら何とも言えなかった。
翌日、桜馬は蒼子を買い物に連れて行った。来た日からずっと同じ服を着ているので、新しい服を買ってやろうと思ったのだ。蒼子は左右にある店をきょろきょろと嬉しそうに見ていた。
「おーま! すごい! おようふくいっぱいです!」
「あんまりきょろきょろしてるとぶつかるぞ」
「はーい!」
2人は1軒の店に入り、服を見始めた。
「おーま! あれ! かわいーです!」
蒼子はある1着を指差して言う。水色のひらひらとしたワンピースだった。蒼子はワンピースの裾を持ち上げて喜んでいる。
「ひらひらー」
「これがいいの?」
「はいっ」
桜馬はワンピースを持ち、レジへ向かった。蒼子はその後ろを軽い足取りでついていく。レジには誰もいなかった。
「すいませーん」
「はーい」
桜馬が呼ぶと、奥から声が聞こえてきた。そして出てきた店員を見て、桜馬は驚く。店員の方も「あ」と声をあげた。
「あのときの…」
「あのときはありがとうございました」
「いいえ。お体は大丈夫ですか?」
「ええ。お陰様で」
2人の会話を、蒼子は首を傾げながら眺めていた。桜馬がそんな蒼子に気付く。
「蒼子、この人はね、俺の恩人なんだ」
「おんじん?」
「恩人だなんて…大袈裟ですよ」
「俺が海で溺れてたところを助けてくれたんだよ」
「おんじん! ありがとーございます!」
蒼子は嬉しそうに頭を下げた。店員は微笑む。
「可愛らしい子ですね。妹さん?」
その言葉に、蒼子はむっとして桜馬の腕に抱きついた。
「ちがいます! わたしはおーまとけっこんするんです!」
「…蒼子」
店員は目をぱちくりさせていた。そして再び微笑む。
「いいですね」
「ははは…」
店を出る直前、蒼子が試着室のカーテンに興味を示している間に、2人はアドレスを交換した。桜馬は「今度お礼に食事しましょう」と言って店を出た。女の名前は椎野壬生菜といった。
それから壬生菜は頻繁に桜馬の家を訪れるようになった。桜馬の恩人である彼女は、蒼子にとっても恩人だった。哉斗と菘も壬生菜には感謝していて、“話”はまとまりつつあった。
「あ! いらっしゃいませ!」
「こんにちは、蒼子ちゃん」
「……?」
蒼子はきょとんとして首を傾げる。壬生菜の後ろに更に2人の男女がいた。
「蒼子ちゃん…? ああ、この2人はね、私の父と母よ。桜馬何処にいるか分かる?」
壬生菜が尋ねると、蒼子は表情を明るくした。
「おーま! こっちです!」
壬生菜の手を引いて桜馬の元へ連れて行く。
「おーま!」
「蒼子! 壬生菜! いらっしゃい。待ってたよ」
「ごめんね、遅くなって」
「いいよ。初めまして、水田桜馬と申します」
桜馬は壬生菜の両親を向いて言う。
「あ、いえ、えっと、椎野、え、瑛汰と言います。壬生菜がいつも、お世話なっております」
「壬生菜の母の椎野蕃茄です」
「もぉお父さん緊張しすぎよ!」
「だってなあ、しゃ、社長さんだぞ…!?」
「まだ社長じゃないですよ」
桜馬は微笑んで言った。
「それに、今は社長とかではなく、娘さんの恋人、なんですから」
蒼子は桜馬が何と言ったのか分からなかった。桜馬の腕にしがみつく。
「その子は…妹さん?」
蕃茄が蒼子を見て尋ねた。蒼子が訂正する前に、桜馬が口を開く。
「ええ、妹の蒼子です」
蒼子は信じられないという表情で桜馬を見た。
「ちがいます! わたしはおーまとけっこんするんです!」
「蒼子ちゃんはお兄ちゃん大好きなのよねー」
「ちがいます! おにーちゃんじゃないです!」
蒼子は必死に否定するが、誰も取り合ってくれなかった。
「蒼子」
桜馬が蒼子の両肩を掴む。
「俺、壬生菜と結婚するんだ」
「え…?」
蒼子はそれしか言えなかった。桜馬の言葉が理解できない。桜馬と壬生菜は顔を見合わせて微笑んだ。幸せそうに。それ見た蒼子は、自分の中で何かが壊れるのを感じた。
蒼子が何も言えないまま、式の日取りも決まり、準備は着々と進んでいった。蒼子は静かな部屋の中で、窓の外を眺めていた。傍に置いてある本を手に取る。表紙に下半身が魚のような可愛らしい女の子の絵が描かれている本だ。開いてみるが、文字は読めない。
「おーま…」
蒼子は呟いた。
すると窓からコンッと音がした。蒼子は窓に近付いて下を見る。女が1人、蒼子に向かって何か訴えていた。蒼子は窓を開ける。
「エルミー!」
女は叫んだ。
「えるみ…?」
蒼子は首を傾げる。
「これを使いなさい!」
女が言ったのは日本語ではなかったが、何故だか蒼子には理解できた。女は蒼子に向かって何かを投げる。蒼子はキャッチした。小さな瓶だ。
「これは…?」
「それは火炎瓶よ。それを彼に投げつけて燃やしてしまいなさい」
「! 桜馬を…!? そんなこと…!」
そして蒼子の口から出たのは、知らない言葉だった。自分でもそれが何の言葉なのか分からない。
「そうしないと貴女は消えてしまうのよ!?」
「…え?」
女の言葉に、蒼子の思考は停止した。
「エルミーが彼と結婚できなければ、エルミーは海の泡になって消えてしまうのよ」
「海の…泡…?」
女は頷いた。
「だからその前に、彼が他の女と結婚する前に、彼を燃やして食べてしまいなさい。そうすれば彼は、貴女の中で生き続けるわ」
「……」
蒼子は言葉を失った。色々なことが一遍に起きて訳が分からない。女は「今夜実行するのよ、必ず。彼が眠ってしまってから」と言い残して去っていった。
その夜、蒼子は桜馬の部屋へ向かった。桜馬はベッドの中でぐっすりと眠っている。蒼子は震える手で、火炎瓶を取り出した。鼓動が速まる。深呼吸をする。蒼子は瓶を持った手を振り上げた。
――これを投げたら桜馬は燃える。
燃える。
蒼子は振り上げた手を下ろした。そんなこととてもできなかった。蒼子の手から瓶がこぼれ落ちる。割れた瓶から炎が上がり、蒼子の服に燃え移った。しかし蒼子は気にも止めず、その場に座り込んで泣き出した。桜馬が泣き声で目を覚ます。そして炎に包まれたまま泣いている蒼子を見て驚いた。
「えっ!? あっ蒼子!? どうなって…! あ、いや、み、水…! ちょっと待って!」
桜馬は慌てて部屋を出た。そして少ししてバケツ一杯に水を汲んで戻ってくる。その間にも蒼子はただ泣き続けていた。桜馬はバケツの水を勢いよく蒼子にかけた。途端に蒼子は泣き止む。桜馬は目を見開いた。
「…蒼子…? 髪…」
水を被った蒼子の髪は、月明かりに照らされて真っ青に輝いていた。蒼子は桜馬を見る。
『大丈夫よ。もうすぐ岸に着くから。だから頑張って、もう少しよ』
“あのとき”ぼやけた視界に見えた青が、桜馬の中で鮮明に思い出された。
「おーま…わたし…」