小説6
□正しさなど要らない
1ページ/2ページ
「正しい大学へ行って、正しい会社へ入って、正しい人と結婚して、正しい人生を歩むのよ」
正しさなど要らない
「よくやったわ裡子。でもこれで油断して落ちるなんてことがないようにするのよ」
「…はい」
酒匂裡子。学内では“美人だが近寄りがたい”と噂の生徒会副会長だ。副会長になったのは、生徒会選挙で現生徒会長の嬉野遷に負けたからだった。その差は僅か1票だったのだが、それでも母親は生徒会長になれなかった裡子を許さなかった。だから今回のことで、何とか母親の機嫌を直すことができたのだ。模試1位。それも学内のものではなく、裡子の第一志望の大学を志望する全国の学生の中での1位だった。これくらいしなければ、この母親は喜ばない。自分の部屋へ入ると、裡子は模試の結果を丸めてゴミ箱に捨てた。裡子にとっては大した意味もない紙切れだ。そしてすぐに机に向かった。
「酒匂さん今回も全教科満点でしょ?」
期末試験の結果を渡される日。クラスメイトの女子が裡子に訊いてきた。
「いや…今回は英語が99点で…」
「あ、そうなんだ。でもあとは100点でしょ? すごーい!」
「酒匂」
担任が裡子を呼ぶ。裡子は結果を取りに向かった。そして渡された紙を見て、裡子は目を丸くした。
「2位…!?」
学年順位の欄に、確かに“2”と書かれていた。それだけではない。クラス順位も2位だった。裡子が満点でなかったのは英語だけだ。つまり1位の人間は、全教科満点ということになる。そしてその人間は、このクラスにいる。裡子は席に戻り、一体誰なのか考えたが、思い当たる人物はいない。全教科満点を取るような秀才が、このクラスにいただろうか。
「御坂。おい御坂!」
「うっせーな聞こえてるよ!」
そのとき横から大きな声がする。裡子はビクッとして顔を上げた。隣の席の御坂唯識という不良だ。唯識は面倒臭そうに立ち上がり、教卓の方へ向かう。そして結果を見て、溜め息を吐いた。
その日の放課後。裡子は生徒会の仕事を終え、教室にいた。期末試験の結果の用紙を見ながら、自分の席に座っている。
「どうしよう…」
呟いて、長い溜め息を吐く。
「あれ? 酒匂サンじゃん。何やってんの?」
そのとき教室の入口の方から声がして、裡子は振り返る。唯識が教室に入ってきた。裡子は眉をひそめる。
「…別に、何でもないわよ」
言って裡子は前を向いた。
「ああ、そう」
唯識も大して気にしていないように言い、こちらに歩いてくる。こちらにといっても、自分の席に向かっているだけだ。
「じゃ、帰ったら?」
自分の席までくると、唯識は裡子に向かって言った。
「…どんな顔して帰ったらいいか分からないわよ」
裡子は呟いて、試験の結果を握り締める。唯識はそれをチラッと見た。学年順位とクラス順位の両方に“2”と書かれた用紙を。そして目を逸らした。
「たかが1点だろ?」
「その1点がダメなのよ!! たった1点分のミスで学年どころかクラスも2位なんて…余計怒鳴られるに決まってる…!」
「……」
唯識は何も言わず、ただ溜め息だけ吐いて去っていく。そのとき唯識の机から紙が1枚落ちるのを裡子は見た。
「…御坂くん、何か落とし…」
それを拾い上げて、裡子は言葉を止める。
「あっ」
それに気付いた唯識は、慌てて裡子の手からそれを奪い取った。学年1位、全教科満点の試験結果を。
「アンタ…」
コイツだけは有り得ないと思っていた。授業にも気が向いたときぐらいしか顔を出さない、好きなときに登校して好きなときに下校する。制服もまともに着ない、何度注意されても説教されてもきかない。そんな奴が何故、留年もせずに進級できるのかとは思っていた。
「なんてことしてくれたの…!! アンタのせいで…!」
コイツだけは、絶対有り得ないと思っていた。
「アンタのせいで私、家に帰れないじゃない!」
「はあ? 人のせいにすんなよ。間違えたのは自分だろ?」
「それでもアンタが全教科満点でさえなければ、私が1位とれたじゃない!」
「だからそれこそ逆恨みだろうが!」
「逆恨みでも何でもいいわよ! また1点差で、今度はアンタみたいなのに負けるなんて…!」
「…また?」
唯識は眉をひそめる。そして少し考え、すぐに「ああ」と何か思い付いたように言った。
「選挙のことか。生徒会の」
それを聞いて、裡子は顔を上げる。
「…なんで知ってんのよ」
生徒会選挙は獲得票数までは公表されない。遷と裡子が1票差だったことは当人達と教員しか知らないはずだ。
「あー…悪ぃけど、そっちは俺のせいだわ」
頭を掻きながら唯識が言う。裡子は自分の耳を疑った。
「は…?」
「最後の1票入れたの俺だから」
唯識は言う。生徒会選挙をサボっていた唯識は教員に見つかり、選挙を行っていた体育館に無理矢理連れてこられた。そして遷と裡子のどちらかに投票するように言われた。他にも候補者はいたが、遷と裡子が同票トップだった為である。
「で、俺嬉野に入れたから」
「は…? アンタ…どれだけ私の人生狂わせれば気が済むの!? アンタの適当な1票のせいで生徒会長になれなかったなんて…!」
「適当じゃねぇよ」
唯識の言葉に、裡子は再び顔を上げる。
「は…」
「俺酒匂サンが生徒会長とかヤだし」
「は…!? なんでよ!」
「だって人形みたいじゃん。アンタ」
唯識は裡子を見てハッキリと言った。裡子は言葉を失う。
「意思がないっての? 上ばっか狙ってんのも自分の意思じゃねぇみたいだし、そんな奴に会長なんかやらせたくねぇよ」
「……」
「悪ぃな」
最後にそれだけ言って、唯識は教室から出て行った。
それから家に帰った裡子は、当然の如く母親に怒鳴られた。「だから油断するなと言ったのよ!! たった1点のミスでこんな結果になるのを知らないハズないでしょう!? 1点で合否が分かれるのよ1点で!! 分かってるの!!?」と。裡子が思っていた通りの怒られ方だった。部屋に入り、模試のときと同じように結果をゴミ箱に捨てる。そして机に伏せた。
『人形みたいじゃん。アンタ』
唯識の言葉が頭をよぎる。
「私の何がおかしいのよ…おかしいのはアイツの方じゃない…」
裡子はポツリと呟いた。
翌日、3限の途中に登校してきた唯識を裡子は睨む。それに気付いた唯識も、裡子を睨み返した。
「何見てんだよ」
「べっつにぃ?」
裡子は皮肉たっぷりの口調で言い、前に向き直った。
「酒匂サン」
唯識が裡子の机に手を置いて言う。4限の授業が終わった直後だった。裡子は唯識を睨む。
「何?」
「金持ってない?」
「…は?」
それだけ言って、裡子は言葉を失った。
「金」
黙っていると、唯識がもう一度言う。
「なんでよ」
「財布忘れたんだよ。昼飯買えねぇじゃん」
「だからって何で私に借りようとすんのよ。他に誰でもいるでしょ」
「いーじゃん隣なんだし」
「男子にでも借りろって言ってんのよ」
「酒匂サンは貸してくんないの?」
「貸さないわよ」
「ふーん」
唯識は机から手を離す。ニヤニヤしながら裡子を見ていた。
「…何よ」
「いや?」
言いながら、唯識はやはりニヤニヤしている。裡子は溜め息を吐いた。
「あーもう分かったわよ! 貸せばいいんでしょ貸せば」
「流石! 副会長!」
「わざわざ副会長って呼ぶんじゃないわよ! 誰のせいで副会長になったと思ってんの?」
「俺だけど?」
あっさりとそう言われ、裡子は返答に困る。言葉が見つからなかったのでそのままカバンを漁りだした。財布を取り出して開く。
「パン買うんでしょ? 150円あれば足りる?」
「あーいや、飲み物も買うから250円欲しいかな」
「250円ね、はい。明日絶対返してよ」
言いながら裡子は唯識に小銭を差し出す。
「サンキュー酒匂サン。明日返すわ」
小銭を受け取った唯識は、そう言って去っていった。それを見届けたあと、裡子はパンの袋を開ける。
「唯識どうしたんだろ」
「ねー。急に酒匂さんに話しかけたりして」
教室内からそんな声がした。
「あ、酒匂サンオハヨー」
翌日裡子が教室へ行くと、既に唯識がいた。教室にはまだ唯識1人だ。
「…何してんの」
「酒匂サンなら一番乗りだろうと思ってさ」
「は…?」
「金。今日返すって言ったろ?」
「まさか、そのために来たの?」
「そーだけど?」
「…馬鹿じゃないの?」
呟いて裡子は、自分の席へ向かう。そして隣の唯識から小銭を受け取った。
「…2…60円?」
小銭を握った手を開いて、裡子は言う。貸した覚えのない10円玉が乗っていた。
「それはありがとうの10円」
裡子の方は見ずに、唯識が言う。
「…何、それ」
言って裡子は、財布を取り出した。
「今日は1限から出るの?」
財布に小銭を入れながら訊ねる。
「どーしよっかなー」
「何それ。じゃあ何でわざわざこんな早く来た訳?」
「だからそれは酒匂サンに金返すため?」
「別にいつ来たってお金は返せるじゃない」
「あーそんなこと言っていいのかなー生徒会副会長ともあろうお方が。不良男子にいつ来てもいいとか」
「別にいつ来てもいいとは言ってないわよ! こんなに早く来る必要はないんじゃないかって言ってるの!」
「だって誰もいねーじゃん」
裡子は言葉を止めた。唯識の言いたいことが分からなかった。
「は…?」
「俺みたいなんと喋ってたら酒匂サンの内申に傷がつくだろ?」
「……」
裡子は黙った。黙って、何を言ってるんだコイツは、と思った。裡子の内申なんて、唯識には関係ないだろう。
「…アンタはどうなのよ」
「は? 何?」
「御坂くんの内申はどうなのよ。成績はいいんだから、生活態度改善すれば幾らだって内申よくなるんじゃないの」
「はっ、俺はそんなのどーだっていいよ。でもアンタはそうもいかないんだろ?」
「…何で、アンタがそんなこと気にするの。私が嫌いなんでしょ?」
「は?」
唯識が裡子の方を見て言った。裡子も唯識を見る。
「俺がいつ嫌いなんて言った?」
「いつ、って…一昨日…」
「言ってねーよ。酒匂サンが生徒会長やんのは嫌っつったけど、酒匂サンが嫌いとは言ってねぇし」
「…それ嫌いって意味じゃないの?」
「別に嫌いじゃねーよ。つーか嫌いだったら金借りたりしねぇし」
「…あっそ」
言って裡子は前に向き直る。カバンからテキストを取り出し、開いた。
「朝イチで来て勉強か。頑張るねぇ」
横で唯識が欠伸をしながら言う。
「邪魔するなら寝てて」
そんな唯識に言い放ち、裡子はシャーペンを取った。
「そうするわ。久々に早起きして眠ぃし」
そう言って唯識は机に伏せる。すぐに寝息が聞こえてきた。
「早っ」
思わず裡子は唯識を見て呟く。そしてテキストに向き直りながら思った。“久々に”ということは、昔は唯識も早起きしていたのだろうか。まあ流石に小学生の頃は登校ぐらい真面目にしていただろうが、そんなに昔のことを出して“久々に”などと言うだろうか。
「御坂くんっていつから…」
もう一度唯識の方を見て呟いてから、裡子は勉強を始めた。
それから唯識は毎朝、裡子より早く来ていた。しかし挨拶だけしたあとすぐ眠り始め、話しかけてきたりはしない。裡子は唯識の寝息を聞きながら、勉強した。そうして1ヶ月が経った。
ある日裡子が教室に入ると、突然パンッと音がした。そして紙テープや紙吹雪が降ってくる。
「ひゃっ」
裡子は小さく悲鳴をあげた。見ると、唯識がクラッカーを持って立っている。
「…何」
「合格おめでとう」
それだけ言うと、唯識は紙テープと紙吹雪を回収し始めた。
「…何で知ってるの」
「昨日職員室で先生が話してんの聞いた。都大トップ合格だって?」
「…うん」
「すげーじゃん。そのために勉強してたんだろ? よかったな」
「…うん」
クラッカーの中身を回収し終えた唯識と共に、裡子は席に着く。唯識は裡子の方を向いた。
「納得してなかったの? 親」
裡子は首を横に振る。