小説6

□追走インカルナータ
1ページ/5ページ

絞り染め死別→つ

私には2つ上の兄がいる。
いつも優しくて、私を守ってくれて、頼りになる、私の自慢で、憧れのお兄ちゃん。
私はいつもお兄ちゃんの背中を追いかけて、追いかけて、追いかけて、追いかけて、

そしてもうすぐ、追いつく。


追走インカルナータ





兄である梁井律也に出逢ったのは、彼女が5歳の時だった。両親を失った彼女が引き取られた施設に、彼はいた。

『こんにちは』
『こ、こん、にちは…』

笑顔で手を差し出してくれた律也に、彼女はお気に入りのぬいぐるみを抱き締めながら答えた。

『お名前は?』
『せゆら…はやの、せゆら…』
『せゆらちゃん? かわいい名前だね! ぼくは矢頭律也。よろしくね』

律也はせゆらに笑顔を向けた。他の子供達が遊んでいるのをいつも部屋の隅で見ていたせゆらに近寄り、声をかけた。大人しいせゆらをからかう男子からも、律也が守ってくれた。せゆらにとって律也は優しい兄のような存在であり、律也にとってせゆらは可愛い妹のような存在だった。




「――それで丁度赤穂が来て、私まで巻き添えにされたの! あとから来た癖に、ガラス割れたときから見てたとか言い出してさ! 他の子が私は関係ないって言ってくれたからよかったけどさあ。最低だよホント」
“ホント最低だな赤穂。せゆらがそんなことするわけないのに”

せゆらと律也がこうして時々電話をしていることを、両親は知らない。知れば2人は、いつまでも兄離れできない妹だと思うだろう。幼い頃から今まで、せゆらは律也にベッタリだった。

「まあアイツ生徒から嫌われてるしね。確認もせずにすぐ生徒を疑うし、理不尽に怒鳴るし、ホントなんでアイツクビにならないんだろ」
“担当学年違うだけまだマシだろ。今3年の担当なんだっけ?”
「そう。3年6組の担任。もうギスギスしてるよあのクラス」
“うわ…まだ進級して1ヶ月も経ってねぇのに?”
「うん。…てかごめんねお兄ちゃん。久しぶりの電話なのに愚痴って」
“何言ってんだよ。お前が何も言わずに1人で抱え込むよりマシだよ”
「ふふ、お兄ちゃんは相変わらず優しいなあ」
“…ばか”

だが実際はそうではない。兄離れなど疾うにしている。もう随分前から、せゆらにとって律也は兄ではない。

「…ねぇお兄ちゃん」
“ん?”
「今度いつ会える?」
“……”
「会いたいよ、お兄ちゃん」

ならば何故いつまでもお兄ちゃんなどと呼んでいるのか。それは2人の“約束の日”のためだった。

“…俺も会いたいよ。でももうしばらくは…無理だと思う”
「…そっか」
“ごめんな、せゆら”
「何言ってんの! 私は大丈夫だよ! 高校卒業したらずっとお兄ちゃんと一緒にいられるんだから。あと2年の辛抱だよ」
“…そうだな”


◇◇

『ねえ、あなたうちの子にならない?』

梁井夫妻が施設にやってきたのは、それから2年後。せゆらが小学校に上がる前だった。妻の美朱代は長く不妊治療を続けていたが結局実らず、気を病んでいた。それを見かねた夫の智良が、施設を訪ねることを提案したのだ。沢山の子供達は皆可愛らしかったのだが、中でも夫妻はせゆらを気に入った。

『りっくんがいっしょじゃないとイヤ』
『りっくん? どの子?』

せゆらは律也の元まで走り、その背に隠れた。

『せゆらちゃん? どうしたの?』
『あなたがりっくんね?』

律也は梁井夫妻を見る。30代後半の優しそうな男女だ。

『…そうです。矢頭律也…この子は早野せゆらです』
『りつやくんに、せゆらちゃん。りつやくんは何歳?』
『…8歳』
『せゆらちゃんは?』
『…6さい』
『そう。じゃありつやくんの方がお兄ちゃんなのね』
『おにいちゃん?』
『ねぇ2人共。うちの子になってくれない?』

美朱代は2人と目線を合わせ、ニコリと笑って言った。2人は顔を見合わせて首を傾げる。だが断る理由はなかった。せゆらは律也がいればよかったし、律也はせゆらを1人にするのは心配だった。むしろ本当の兄妹になれるなら大歓迎だ。2人は二つ返事で了承した。


◆◆

律也と離れて半年が経ち、大分律也が家にいないことにも慣れた。電話は毎日ではないが、続いていた。律也の方がかけられる日とそうでない日があるため、いつも律也からくる。ある程度かけてくる時間を決めているようだった。

“せゆら、今度さ…”
「ん?」
“会おうか”
「えっ!?」

せゆらは驚いて、携帯を持つ手に力を込める。携帯がミシッと音を立てた気がして、我に返った。

“1日だけ、時間作れそうなんだ”
「ホント? 嬉しい、嬉しいよ!」

せゆらが本当に嬉しそうに言うと、律也も電話の向こうで笑ったのが分かった。

“じゃあ来週の日曜とか、大丈夫?”
「来週の日曜…ってことは28日?」
“そう”
「うん、大丈夫!」
“よかった”

それからの1週間はとても長く感じた。あと6日、5日、4日、と毎日数えていた。

「やっと明日、会える…」

カレンダーを眺めながら呟く。律也に会うのは実に7ヶ月振りだ。待ち合わせ場所は実家の最寄駅。そこまでは来てくれると言っていた。当日、せゆらは支度をして駅へ向かう。律也と会うためにこれほど着飾るのは初めてだ。当たり前だが、兄に会うのにわざわざオシャレをして出かける妹がいるとは考えにくかった。外出するからという理由で着飾ることはあるだろうが。

「お兄ちゃん!」

待ち合わせ場所に着くと、既に律也は待っていた。せゆらの声を聞いてこちらを向く。

「せゆら!」

律也もせゆらに駆け寄る。そして抱き合った。兄妹と思われる2人が抱き合っているのを見て、周りの人々は眉をひそめる。中には“仲の良い兄妹なのね”というような視線を向ける者もいたが、大抵はそんな冷ややかな目だった。

「せゆらがそんな格好してるのあんまり見たことないから、なんか新鮮だな」

律也は体を離し、せゆらの服装を見ながら言う。

「へへ、お兄ちゃんとは家でしか会ったことないもんね」
「そっか…そうだな」
「私だってこういう格好するんだよ?」
「そうだよな…似合ってるよ」

せゆらは嬉しそうに笑う。律也はせゆらに手を差し出した。

「…? お兄ちゃん腕…どうしたの?」

差し出された腕を見て、せゆらは言う。律也の服の袖から包帯が見えていた。

「あ、ああ…ちょっと怪我してんだ。大丈夫だよ」
「ふぅん…そう」
「行こう」

律也がせゆらに向かって微笑む。もう兄の表情ではなかった。そしてそれに答え、その手を取るせゆらも、妹の表情ではなかった。周りの冷ややかな視線など気にならない。2人は本当の兄妹ではないし、近い将来兄妹ではなくなるのだし、せゆらが律也を“お兄ちゃん”と呼んだのを見ていた人のいるこの場さえ離れれば、2人を兄妹だと思う人はいないだろう。


◇◇◇

梁井夫妻の養子になった2人は、本当の兄妹のように育てられた。せゆらが律也をお兄ちゃんと呼ぶようになったため、周囲の人間も2人を本当の兄妹だと信じて疑わなかった。それ程までに仲が良かったし、一緒にいるうち、心做しか似てきているような気さえしていた。

『お、おにいちゃん…』
『ん? どうした? せゆらちゃん』

せゆらがぎこちなく律也に歩み寄る。まだお兄ちゃんと呼びなれないせゆらと、今までの癖でついせゆらをちゃん付けしてしまう律也に、梁井夫妻は穏やかな視線を向けていた。

『あの、しゅくだいおしえてー?』
『宿題? 何? ああ、ひきざんかーかんたんだよ』
『えーでもぜんぜんわかんないよ』
『3年生になったらわりざんとかあるんだぞ?』
『わ、わりざんってなに?? むずかしい??』

初めて聞く単語に、せゆらは焦る。律也の宿題を見せてもらうと、一本の横棒の上下に点が1つずつついたこれまた見たことのない記号が載っていた。足す、と引く、を辛うじて理解できたところだというのに、割り算なんて得体の知れないものが出てきてしまって混乱している。

『うん。むずかしいよ。大きくなったらどんどん勉強がむずかしくなってくんだよ』
『えーやだよわかんないよ。せゆら大きくなりたくない!』

無茶なことを言うせゆらの頭を律也が撫でる。

『大丈夫。せゆらなら大丈夫だよ。ほら、教えてあげるから』
『で、でもっ…わり、わりざん…? が…』
『わりざんは3年生になったら分かるようになるよ』
『ほんと?』
『ホントホント。分かんなくてもお兄ちゃんがいるから大丈夫だよ。いつだってお兄ちゃんが先に習うんだから。せゆらが分かんなかったら俺が教えるよ』
『うん! よかったーおにいちゃんがいて。おにいちゃんだいすき!』

せゆらは律也に抱きついた。律也もせゆらの頭を再び撫でる。宿題のプリントは2人の間でくしゃりと折れ曲がっていた。


◆◆◆

2人は電車を乗り継ぎ、テーマパークへ着いた。子供から大人まで大人気のテーマパークだ。2人が来るのは、小学生の頃両親と来て以来だった。

「相変わらず人多いねぇ」
「そうだな。ホントは平日とかに来れた方が人少ないんだろうけど…」
「そういえば、昔お母さん達と来たときは平日だったっけ?」
「確かそうだった気がする。日曜参観の振替休日と、父さんの休みが重なって…」
「そうだそうだ。お父さんが一番はしゃいでたよね」
「ああ、そうだ。結構覚えてるな」
「だね」

2人は手を繋ぎ、アトラクションを回った。そうしているとやはり恋人同士に見えるのだろう。誰も不審がる人はいなかった。待ち時間はどのアトラクションも長く、その間はずっと近況などを話していた。

「大丈夫か? せゆら。疲れてない?」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんこそ」
「俺も大丈夫だよ」
「…ねぇ、いつかさ」
「ん?」
「いつか、子供達と来ようね」
「……子供?」
「うん。私と、お兄ちゃんの子供。みんなで来よう」
「…そうだな」
「お父さんみたいに、お兄ちゃんが一番はしゃいでるかもね」
「よく似てるって言われるしなあ。そうなるかもな」
「子供は何人欲しい? お兄ちゃんが望むなら何人でも頑張っちゃうよ?」
「お前だけ頑張ってもダメだろ。俺は…せゆらがいてくれれば、他には何もいらないよ」
「……私も! 私も、お兄ちゃんがいてくれればいい!」

せゆらは律也の腕に抱きついた。律也との未来を思い浮かべる。高校を卒業して、律也と暮らし始めて、結婚するまでは少し大変かもしれない。でも2人ならきっと上手くいくはずだ。小さなアパートでいい。2人でささやかに暮らして、子供ができたら少し広いアパートに引っ越しても、マイホームを建ててもいい。マンションを買うのも悪くない。律也はどういう風に考えているのだろう。

「でも子供も欲しいなあ。女の子! 可愛い服いっぱい着せてあげたいの」
「可愛いのは嫌だって言ったら?」
「そりゃあ、無理にとは言わないけど。娘の好きな服が、可愛い服」
「なるほどね。じゃあ男の子だったら?」
「男の子だったらねー…」

これからそうやって、2人で未来を描いていけたら、どんなに楽しいだろう。せゆらは律也の手をギュッと握る。愛しい律也が、傍で微笑んでいた。

次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ