小説6

□壱
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それは隆茂と白菊が結婚して、3年目のことだった。隆茂がいつも通り仕事を終えて帰宅すると、白菊が赤ん坊を抱いて出迎えた。そして言う。

「貴方の子よ」



雪妖記2 壱



「というのは勿論冗談よ?」

ぽかんとして立ち尽くす隆茂に、白菊は笑った。この台詞言ってみたかったの、と。赤ん坊は白菊の腕の中で大人しくしている。

「え、え? 何、どういうこと?」

ようやく現状を飲み込んだ隆茂が訊ねた。白菊は赤ん坊の頭を撫でる。

「この子、捨てられていたの。弥山に」
「え…」
「今日久しぶりに山の様子を見に行ったら、私の住んでいた洞穴の近くで泣いていたの。人間の子だったんでしょうけど…山に捨てられて死んで、雪女になったのね」
「そ、そうなんだ…」
「隆茂さえよかったら、この子を養子にしたいんだけど」
「えっ?」

隆茂は驚いて顔を上げた。突然のことでまだ頭が上手く回らない。

「いずれにせよ、人間としてのこの子はもう死んでしまっているんだし…赤ん坊を放ってはおけないわ。…ダメかしら?」
「えっちょっ…」

白菊が悲しげな目で見るので、隆茂は更に焦る。赤ん坊はやはり白菊の腕の中で大人しくして…いや、こちらを見ている。泣きもせず、笑いもせず、大人しくこちらを見ている。腹を決めろとでも言わんばかりの表情で。怖い。本当にこの子赤ん坊なのか。

「うん…まあ、それは…そうだよね」
「でしょう?」
「でも僕、ただでさえ赤ちゃんの面倒なんて見たことないのに、雪女の赤ちゃんなんて尚更勝手が分からないよ」
「…それは…でも、どこの夫婦にだって言えることだわ」
「僕だけ時間の流れが違う。その子が5歳になる頃には、僕もう80近くになってんだよ?」
「…じゃあ、もう一度あの場所に捨ててこいって言うの…?」

白菊が泣きそうな顔で言う。そんな顔をされては何も言えないではないか。隆茂は溜め息を吐いた。

「…分かったよ。でもホントに、僕は何もできないよ?」
「分かってるわ。頑張る」
「じゃあまず名前、決めないと」
「え?」

白菊はきょとんとしている。全く考えていなかったようだ。

「名前、大事だよ? この子がこれからの長い雪女人生で背負うものなんだよ?」
「え、ええ…そうね…そうよね…どうしましょう…」
「雪女っぽい名前の方がいいのかな? 雪がつくとか…」
「私はついてないわよ?」
「あ、そっか…そうだね」
「それにこの子は雪女だけど…人間の貴方も一緒に育てるのよ? 雪女らしくする必要ないわ」
「…ねえ、霙は?」
「…みぞれ?」

白菊は再びきょとんとする。

「霙って、雨と雪の間ぐらいじゃん? 人間と雪女で育てるなら…丁度いいかなって」
「成程ね…いいわ。素敵ね」
「ホント? じゃあ決まりね! 内田霙!」
「内田霙…私達の子供みたいね」
「え、子供だろ?」
「ええ…そうなのだけど…私嬉しいの。貴方との子供なんて、持てないって思ってたから」

白菊は微笑んで、霙の頭を撫でた。撫でながら「霙」と呼びかける。霙はそれに返事をするかのように笑った。隆茂もそれを見て微笑む。霙を抱く白菊は早くも母親の顔をしていた。




翌日、白菊は霙を抱いて買い物に向かった。急に娘ができたので、何も用意がないのだ。赤ん坊に必要なものを買わなければならない。真っ白な母親に真っ白な娘。道を歩いているだけでも周りの注目を浴びることは必至、だが白菊は大して気に止めていなかった。最初におんぶひもを購入し、霙を背負ってから買い物を始めることにする。店の人に訊いたところ、霙は既に首がすわっているようだったので、勧められた縦抱きのおんぶひもを買った。

「普通はどのくらいで首がすわるものなのかしら?」
「早い子でも生後3ヶ月ぐらいですよ。平均だと4、5ヶ月ぐらいですかねー」
「4、5ヶ月…」

店を出て歩きながら白菊は考える。雪妖族は10年で人間1歳分の年を取る。だとしたら、霙が雪女になって3、4年は経っていることになる。その間にも白菊は時々山へ帰っているが、一度も声を聞いたことはない。

「雪女になったのは最近なのかしら…」

白菊は背中の霙をチラッと見て呟く。霙はいつの間にか眠っていた。霙に訊いたところで、何も分からないし、何も答えられないだろうが。白菊はポケットから白い紙を取り出す。紙には赤ん坊に必要なものが書き出してある。ミルク、おむつ、よだれ掛けなど、昨日隆茂がネットで調べてくれたものだ。それを見ながら白菊は買い物を進めていった。

「あら?」

買い物を終えて白菊が歩いていると、見覚えのある人物が店に入っていくのが見えた。白菊は店の前まで行って中を覗く。そこはジュエリーショップだった。真剣な表情でショーケースの中を眺めている。珍しい表情だったので、白菊は声をかけるのはやめた。気がつけば後ろで霙が笑っている。

「あら、霙も可笑しいの? 笑っちゃダメよ。きっと頼子へのプレゼントよ」

白菊が言うと、霙は笑うのをやめた。きょとんとしてこちらを見る。白菊の言うことを理解しているのだろうか。

「いい子ね霙。さあ、帰りましょう」

言って白菊は歩き出した。家に帰って早速ミルクを作って霙に飲ませる。作ったミルクを“適温まで冷ます”ことができず、随分と冷たくなってしまったが、霙は美味しそうに飲んでくれた。霙も雪女なのだから、却ってその方がよかったのかもしれない。

「ただいまー」

しばらくすると隆茂が帰ってきた。

「お帰りなさい」
「あれ、その背負い方で大丈夫なの?」

隆茂は縦抱きのおんぶひもで背負われている霙を見て言う。

「ええ。ちゃんと店員さんに訊いたわ。霙もう首がすわってるんですって。だから縦抱きでも大丈夫だそうよ」
「そうなんだ…」
「ご飯できてるわよ」

隆茂が部屋に入ると、まるでそこは別世界だった。隆茂が昨日リストアップした育児用品が至るところに置いてある。自分の家なのに、知らない家のようだ。昨日までは隆茂と白菊の家だったここが、今日からは隆茂と白菊と霙の家になるのだ。それを急に実感した。

「隆茂?」

部屋の入口で立ち尽くしている隆茂に、白菊が呼びかける。隆茂は白菊に目を遣る。背中に赤ん坊を背負った、最愛の妻。

「あっ…いや、なんでもない」

言って隆茂はリビングを抜け、自分の部屋に向かった。不思議な感覚だ。何の心の準備もできないままに父親になってしまったからだろう。絶対になれないと思っていた父親に。

「今日から3人家族だ…僕は、お父さんなんだ」

自分に言い聞かせるように呟く。リビングに戻ると、テーブルの上に夕食が並べられていた。

「そういえば今日ね、正一を見かけたのよ」
「正一? 何処で?」
「それがねぇ、宝石屋さんなの」
「宝石屋さん? …って」
「指輪とか売ってるところよ。ショーケースの中を見てとても真剣な顔をしていたの」
「真剣な顔…? 正一が?」

白菊は頷く。

「正一、頼子にプロポーズするんじゃないかしら」
「えっついに!? いやーあの2人いつか結婚すると思ってたよ」
「隆茂、それ頼子には言っちゃダメよ」

白菊が言うと、隆茂は何で? という顔をしてこちらを見た。人と共に暮らし始めて3年。白菊は大分空気が読めるようになっていた。隆茂は25年人の中で生きているはずなのだが、相変わらずだ。

「…いいわ。食べましょう」

白菊は溜め息を吐いて、手を合わせた。



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