小説6
□少女は月と共に笑う
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私は天使に会ったことがある。
真っ白い服に真っ白い肌に、真っ白い羽根を持った綺麗な天使。
天使は私と遊んでくれた。私を救ってくれた。そして、
私の大切な人をつれて去った。
少女は月と共に笑う
「愛恵ーおはよー」
柳生愛恵は振り返った。親友が手を振っている。
「おはよぉ理莉」
追いついた親友に愛恵は言った。
「愛恵聞いた? 今日数学小テストだって」
「え!? 聞いてないよーどうしよう!」
「しかも微積分」
「ええ!? 最悪!」
慌てて2人で教室へと走り出す。
高3の夏。進路はまだ決まっていない。進学はしたいが金はない、かといって特待を狙えるほど頭も良くない。この親友――巌谷理莉は進学するのだそうだ。目標があって羨ましい。自分には目指せる将来なんてない。目指すような余裕はないのだ。
「愛恵」
帰り道。理莉と別れて歩いていると、声をかけられる。振り返ると、隣のクラスの比企則智が自転車を降りて近付いてきた。
「則智」
「今帰り?」
「うん」
「そっか。俺も」
学校ではあまり話さないが、2人は幼馴染みだった。家までの道程を会話しながら歩く。話題は幾つもあったが、話題がなかったところで決して気まずくはない。それほど2人は親密な間柄だった。10分程歩き、2人は同じ門をくぐる。“ひまわり園”という名前の児童養護施設だった。
「ただいまー」
玄関の扉を開け、中に向かって言う。
「あ、おかえりー」
ちょうど廊下にいた少女がこちらを向いて言った。彼女は舎人茂智といい、2人の1つ下の学年だ。
「ただいま茂智」
「仲良いねー相変わらず」
「何言ってんの。帰りに偶然会ったのよ」
「いや、愛恵に会うために則智チャリ飛ばしたでしょ」
「は!? 飛ばしてねーよ!」
則智は顔を真っ赤にして言う。茂智は大笑いだ。
「ムキになってー! 余計怪しいよ冗談なのに!」
「ばっ…」
「私はいいよ? 別に」
「えっ!?」
突然の愛恵の発言に、則智は勢いよく愛恵を見る。愛恵は笑った。
「理莉と別れてからいっつも1人だし、則智と一緒に帰るの楽しいし」
「ああ…」
則智が一瞬落ち込んだのを、茂智は見逃さなかった。吹き出して則智に追いかけられる。愛恵は何が起きたのか分からなかった。
3人はこのひまわり園で暮らしている。勿論3人だけではない。20人弱の子供たちがここで生活していた。虐待、育児放棄、死別、経済的理由など、家庭の事情は皆様々だ。だが共通しているのは皆“育ててくれる親がいない”ということだった。愛恵も5歳の時からここにいる。則智はその1年後にここにきた。愛恵が初めて見た則智は全身痣だらけで、ここにきた理由は一目瞭然だった。愛恵は懸命に話しかけたが、則智が心を開くまでにはかなりの時間を要した。茂智も同様だ。中には無理心中の末1人だけ助かってしまった子もいる。心に傷を追った子供たちばかりだが、皆それを感じさせない程明るく過ごしていた。
夏休み前最後の登校日。
愛恵のクラスでは進路調査表が配られた。
「それは夏休み明け提出なー夏休みの間に親御さんとしっかり話し合うように」
担任がプリントの余りをひらひらさせながら言う。教室内からは嫌そうに「はーい」と呟く声がちらほら聞こえた。
「愛恵は決めたの? 進路」
帰り道、理莉が訊いてきた。
「んーん。まだ」
「だよねーあたしもまだ志望校決めかねててー。いや2校には絞ってんだけどね? どっち本命にするかでさー。あたしは江大がいいんだけど、お母さんがどうしても志館大にしろって」
「じゃあ2校って江大と志館大?」
「そー」
「志館は私もいいなぁと思ってるよ」
「マジ!? 愛恵がいるならあたしも志館にしよーかなー」
「えーお母さんに聞かなくていいの?」
「いやだってお母さんが推してんのは志館だし」
「あ、そっか」
愛恵は志館大学を“いいなぁと思ってる”と言っただけだ。そもそも進学するとも言っていない。しかし理莉の中ではすっかり愛恵の志望校になっていた。
一人になってから愛恵は、歩きながら考える。
大学には行きたい。しかし愛恵が行きたいと思っている志館大学は私立だ。養護施設で暮らす愛恵にはとても行けるようなところではない。せめて頭が良ければ、学費を免除してもらうことだってできたかもしれないのに。
「…そんなこと言ったってしょうがないけど」
ぽつりと呟く。
「愛恵?」
後ろから声がした。振り返ると、則智がいつものように自転車に乗って立っている。
「どうした?」
愛恵が何か言う前に、則智が続ける。
「…なんで?」
「いや…なんか背中が暗かったから…?」
「そう、かな」
「うん。なんとなくだけど」
「……」
「どうした?」
則智は愛恵の隣まできてから、再び訊ねた。
「…進路」
「進路?」
「進路調査表…配られてさ、今日」
「…ああ」
その言葉で、則智はある程度察したようだ。それ以上は聞かなかった。
「…則智は、なんか考えてる…?」
代わりに愛恵が訊ねる。則智はゆっくりと自転車を押し始めた。愛恵も黙ってついていく。
「俺は就職する」
やがて則智は、前を向いたままはっきりと言った。愛恵は則智を見る。
「え…?」
「ひまわり園出て早く自立する」
「……」
則智の瞳は揺らがない。初めて聞いた、則智の将来の話だった。
「だからお前は大学行け」
「えっ?」
そして次の言葉の意味が分からず、愛恵は思わずそう言った。何がだからなのか。前後が繋がっていない。
「大学行きたいんだろ? 愛恵」
「…そりゃあ…行きたいけど…でもお金」
「奨学金があるだろ」
「奨学金だけじゃ無理だよ。たくさん借りても返せないし」
「俺も返すよ」
「は…? え?」
「2人で一緒に返していけば大丈夫だよ」
「え、いやちょっと待ってよ! なんで則智が私の奨学金を一緒に返すの!?」
「そ、そんなん決まってんだろ!? それは俺が…!」
そこまで言って則智は黙る。愛恵は則智を見ていなかった。
「あ、愛恵…?」
則智が呼びかけるが、愛恵は答えない。ただずっと、則智の後ろを見つめていた。則智は振り返る。
「愛恵…? 何が」
則智の言葉を遮るように、突然愛恵は走り出した。
「愛恵!?」
呼ぶが、やはり愛恵は答えない。
「待って! 逃げないでよ!」
則智が振り返ろうとした瞬間走り出した少女に、愛恵は叫んだ。少女は止まらず走り続ける。
「待ってって! 永遠!」
愛恵が再び叫ぶと、少女はピタリと止まった。そして振り返る。
「永遠でしょ…? 日和、永遠」
愛恵も走るのをやめ、ゆっくりと呼吸を整えながら少女に歩み寄る。対する少女は全く息を切らしていなかった。
「…私のことなんて覚えてたの? 愛恵」
少し驚いた顔で少女――永遠は言う。
「…忘れるわけないでしょ。私の両親を連れてった天使のこと」
「……」
「アンタがここにきたってことは何? 今度は私の番? 私をやっとお母さん達のところに連れてってくれるの?」
「…愛恵は、連れてってほしい?」
永遠は何処となく寂しそうな表情で言った。
「……生きてたって、何もないもん」
愛恵も寂しそうな表情で呟く。
「ひまわり園でみんなと一緒に暮らすのは楽しいし、色んな人の支えがあって、なんとか高校まで行けた。それは分かってる。でも全部…お母さん達にやってほしかった。お母さん達になら大学行きたいって言えた。流石に大学まで他の誰かには…頼れないよ」
「…例えば、比企則智にも?」
永遠が言うと、愛恵は顔を上げて永遠を見た。
「…一番頼りたくないよ」
「…そう。まあ、どちらにしろ則智を頼ることなんてできないけど」
「…そうだね。連れてってくれるならそれがいい」
愛恵は永遠に向かって手を差し出す。
「アンタのせいで辛い人生だった」
愛恵は永遠を真っ直ぐに見て、手を差し出したまま言った。
「…まだ連れていかないわ。そのときまで残りの人生を悔いのないように生きることね」
「残りの人生って、いつまでなの」
「さあ? 教えちゃったらつまらないでしょ?」
言って永遠はクルッと背を向ける。
「じゃあまたね」
そして永遠は去っていった。
ひまわり園に帰ると、則智が自分の部屋から出てきた。
「お帰り」
「あ、ただいま。ごめんね、急に」
「ああ、いや…大丈夫。それより、どうした? なんか追いかけてったみたいだったけど…」
「…うん。ちょっと知り合いがいて…」
「知り合い?」
則智は眉をひそめる。愛恵は少し迷って、決心したように顔を上げた。
「信じてもらえないかもしれないけど…私小さい頃、天使に会ったの」
「…は? 天使?」
愛恵は頷く。
「まだお母さん達が生きてた頃なんだけど。家の庭で遊んでたら突然空から現れて…私が見えてるって知って、驚いてるみたいだった」
「……」
「小さい頃は私人見知りで、いっつも家の庭で1人で砂のお城とか作って遊んでたんだけど、それからは天使が一緒に遊んでくれた。楽しかったあーこれだけ聞いたら、独りぼっちが寂しかった私が作り出した妄想みたいでしょ?」
「…いや…」
「それだけだったら私だってそう思うよ。あの頃は寂しすぎて、私にだけ見える友達を作ってたんだろうなって。けどね…その天使、その天使が、お母さん達を連れてった」
「え、えっ? …どういうことだよ」
「天使がきて1週間過ぎたぐらいだったと思う。私の誕生日プレゼントを買いにオモチャ屋さんに行った帰り、突然2人は死んだ」
「……」
「私は家でお母さん達が帰ってくるのを楽しみに待ってたの。そしたら天使がきて…私は天使に話したわ。これからお母さん達がプレゼントを買ってきてくれるんだって。けど天使は暗い顔で、“愛恵の親はもう帰ってこない”って言ったの。天使の言ってることが分かんなくて、でも帰ってこないはずないって、ずっと待ってた。そしたら夕方頃お祖母ちゃんがきて、お母さん達が死んだって聞かされたの」
則智は何も言えない。ただ黙って、愛恵の話を聞いていた。
「それからお葬式があって、そのときに、私見たのよ。お母さん達の身体から魂が抜けて、天使と一緒に空へ上っていったのを。私は泣き叫びながらお母さんとお父さんと、天使を呼んだ。お葬式に来てた人達は、親を失って気が動転してるんだって私を憐れんでたわ。誰にも天使なんて見えちゃいなかった」
「……」
「あとから聞いたんだけど、その日天使がうちにきたのは、お母さん達が死ぬ前だったの。だから天使は…お母さん達が死ぬことを先に知ってたってことになる」
「…もうすぐ死ぬから、傍で待機してたってことか?」
「…だろうね。信じてくれるの?」