小説4

□灰の咲く町
1ページ/2ページ

「わたしのことは忘れて…しあわせ、に…なっ…」
「真理っ…! 真理っ…!! 真理っ!!!」





じわりじわりと暑さが迫る。汗が首筋を伝い、気を抜けばふらっと倒れてしまいそうになる。そんな猛暑の中、男はある町の入口に立った。手には大きな荷物を抱えて。それは風呂敷に包まれていた。早く涼しいところに置いてやりたいと、男は歩みを進めた。

「あらお兄ちゃん見ない顔だね。何処から来たんだい?」

傍で農作業をしていた老人が、男に話しかけてきた。

「東京です。ちょっと旅行で」
「まー東京から? こんな何もない田舎に…」

老人の言葉を最後まで聞かず、男はさっさと歩いていった。特に目的地と言える場所がある訳ではない。目的地と云えば、ここは既に目的地の中だ。ある程度歩いたところで、男は荷物を包んでいた風呂敷を解いた。中身は真新しい木箱であった。男は蓋を開け、中に入っていた砂のようなものを全て風に乗せた。

「…真理」

普段なら下らないと言うような噂話など信じて、何をやっているんだと思う。しかし今はそんな下らない噂話にでも縋りたい思いだった。






「高部! おい高部!」

男はハッと我に返った。仕事中だというのに、ついボーっとしてしまっていた。

「あ…すいません」
「珍しいな、お前がボーっとしてるなんて。疲れてるのか?」
「いえ、その…あんまり寝れてなくて」
「なんだ悩みか。相談だったらいつでも乗るぞ」
「はあ…すいません」
「まあ今日のところは上がったらどうだ。それ程急ぎの仕事でもないし、お前がしっかり働いてくれんと終わるもんも終わらんしな」
「…すいません。そうします」

男は机に置かれたパソコンに目をやる。作業は1時間程前からほとんど進んでいなかった。書類を鞄に仕舞い、席を立つ。

「お先に失礼します」

上司に一言告げ、男は会社をあとにした。
あれから5日。やはり噂は噂でしかなかったかと、男は溜め息を吐いた。これからどうするかと真剣に考える。上司の言うように1日休んだくらいで、どうにかなるような問題ではないのだ。このままこの状態が長く続くようなら、会社を辞めることも考えておいた方がいいのかもしれない。
ふと、男は自分の家の前に誰かが立っているのを見た。自分の家、といっても、築20年にもなるアパートである。住人の誰かの知り合いだろうか。大して気にもとめずに男は歩みを進め、ようやく相手の輪郭がはっきりしてきたところで、足を止めた。

「真理…?」

男は呟く。相手はこちらを見て、表情を明るくした。

「真央! お帰り!」

相手は男に近付きながら「遅かったから出てきちゃった」と抱きついた。彼女は紛れもなく真理、立山真理だった。男――真央は目を見開いたままだ。

「真理…ホントに、真理…?」

やっとの思いで声を絞り出し、真央は真理に触れる。確かめるように、何度も彼女に触れる。その感触も、温度も、本物だった。間違いなく、真理だった。

「何? 急に。何かあったの?」

真理の言葉に、彼女は何も覚えていないのだと知る。言う必要はないだろう。彼女は今こうしてここにいるのだから。

「何でもない…何でもないよ。お帰り…真理」

しっかりと彼女を抱き締め、再びその温度を確かめる。

「…帰ってきたのは真央の方じゃない」

「変なの」と笑いながら、真理も抱き締め返した。





帰ってきた真理とは、自然な形で同棲していた。それとなく訊ねてみると、どうやら彼女の中では、同棲を始めて既に1ヶ月が経過しているらしい。確かにあの日、“そろそろ一緒に暮らさないか”と告げるつもりではあったのだが。恐らく彼女に帰る家はないので、確かにこれが1番自然な形であるといえた。

「真央、ちょっと買い物行ってくるね」

雑誌を読んでいた真央に真理が告げた。真央は雑誌から目を離して真理を見る。

「買い物なら俺が行くよ。真理は家でゆっくりしてて」

そう言うと、真理は不満そうに眉をひそめた。

「…真央、最近そればっかり。私ずっと外に出てないんだけど」
「心配なんだよ。真理にもしものことがあったらって」
「心配し過ぎよ! 私子供じゃないのよ?」
「それは分かってるけど…」

真央は必死に思考を巡らせ、真理の納得できる理由を探していた。本音を言ってしまえば、彼女を外に出してやりたいと思う。彼女の行動を制限するのは心苦しいものがあった。しかしそうはいかないのだ。知り合いに彼女を見られては困る。このことは誰にも言っていないし、彼女も何も知らないのだから。しかし彼女は中々折れてくれない。最後には真央の方が溜め息を吐いた。

「…分かった。じゃあ一緒に行こう」

彼女が知り合いと会ってしまったときのフォローがどうしても必要になる。やはり彼女を1人で行かせる訳にはいかなかった。
真理はそれに対し「ホント?」と顔を綻ばせた。

「真央と出かけるなんて久しぶりね」

彼女は嬉しそうに言う。どうやらこちらの方がよかったらしい。真央はホッと一息吐いて立ち上がった。外に出ると、彼女は彼に手を差し出す。

「繋ごう。真央」

彼は微笑んでその手を取る。真理の手はひんやりとしていて心地良い。しかしこんなに冷たかっただろうか。

「手、冷たいね。真理」
「そう? 冷え症だからかな?」
「そうだったっけ?」
「やだ忘れたの? ひどい」

彼女は困ったように笑う。真央はチクリと胸が痛んだ。“忘れたの?”。彼女の言葉が頭の中で響く。忘れていたのだろうか。彼女のことを。“やだ忘れたの?”。

“ひどい”。

「…ごめん」

沈んだ声で真央が言うと、真理はびっくりして彼を見た。

「え? どうしたの真央。冗談よ? 別に責めてる訳じゃないし…真央?」

彼女が慌てている。真理。愛しい恋人。

「真理…結婚しよう」
「え…?」

忘れたくない。もう二度と。しっかりと彼女を瞳に、胸に、肌に、焼き付けたい。だから迷わなかった。いずれにせよ彼女しかいないと思っていたのだ。もう一度会えたら、今度こそ失わないように、しっかりとつなぎ止めておこうと決めていたのだ。





それから慌ただしい1ヶ月が過ぎ、結婚式の当日がやってきた。ウェディングドレスを着た彼女は本当に美しく、真央は思わず涙を滲ませる。ずっと夢に見ていた。ひたすらに来ることを願っていたこの日。もしかしたら、もう来ることはないのかもしれないと思っていたこの日。この日を迎えられたことが、情けない程にどうしようもなく幸せだった。

「真央? ちょっと泣かないでよ…」

彼女が困ったように笑う。

「ごめん…幸せすぎて…」
「やだ大袈裟よ。真央…私も幸せよ」

真理が微笑んで、真央は目を手で覆った。彼女が幸せだと言ってくれたことがこんなにも嬉しい。ああ、幸せだ。真央がしっかりと彼女を抱き締めると、「ドレスの裾、踏んでるわ真央」と彼女も抱き締め返してくれた。





それを聞いたとき、真央は体が震えるのを感じた。耳を疑い、頬を抓って、それが現実であることを確認した。

「私、妊娠してるの」

真理は自分の腹部を撫でながら言う。

「ここにいるのよ。あなたの子」

とても幸せそうに彼女が笑う。

「…触って、いい…?」

やっとの思いで真央は言った。彼女が頷く。ゆっくりと彼女の腹部に触れた。当然何も分からなかったが、どうしようもない程の幸せが込み上げてくるのを感じた。





それからの数ヶ月、2人でとても幸せな時間を過ごした。粉ミルク、ほ乳瓶、おしゃぶり、ベビーカー。ベビー服を眺めているだけでも幸せだった。

「女の子だって」

検診から帰ってきた真理が言う。真央は顔を綻ばせた。

「名前決めよう! 名前!」

張り切って彼は紙とペンを取り出す。

「待って真央。私…名前もう考えちゃった」
「え?」
「美音、ってどうかしら」

真理は微笑んだ。「み お ん…」と真央は復唱する。

「美しい音、っていう字なの」
「美音…」

真央は呟きながら、用意した紙に“美音”と書いた。それをじっと見つめ、

「…可愛い。いいね。そうしよう」

と言った。そしてもう大きくなった真理の腹部に触れる。

「早く出てこい。美音」
「パパもママも美音が出てくるのを待ってるよ」

2人顔を見合わせて微笑む。彼女の中の小さな命が、返事をするように動くのを感じた。





それから真央は今まで以上に仕事に打ち込んだ。愛する妻とまだ見ぬ娘の為に。どんなに仕事が忙しくても、9時には帰宅できるよう頑張った。真理と過ごすささやかな夜のひとときが、彼の1日の楽しみであった。
しかし今日はどうだろう。中々仕事が捗らず、気付けば10時を回っていた。

「高部、時間大丈夫か。奥さんもうすぐ出産なんだろう」

上司が彼に声をかける。彼のことを気に入っており、何かと気を利かせてくれる良い上司だった。

「あ、はい」
「早く帰ってやった方がいい。その作業は明日の午前中までに終わればいいんだ。もう目処はついてるだろう」
「はい。すいません、そうします」

自分は良い上司に恵まれた、と改めて感じながら、真央は帰宅の準備を始める。“今から帰る”と真理にメールを打ち、会社を出た。
家に帰り着くと、真理はダイニングの椅子に座っていた。

「ただいま」

真央は彼女に告げる。彼女の表情は浮かない。

「おかえりなさい」

真理は表情通りの声色で呟いた。真央は眉をひそめる。

「真理? どうした? なんかあったのか?」

机に手をついて訊ねるが、彼女は答えない。

「真理…」
「真央」

彼女は真央の言葉を遮るように言った。

「真央…どうして、私を生き返らせたの…?」

彼女の声が、室内に重く響いた。彼女は悲しそうに真央を見る。

「え…?」

彼はやっとの思いでそう言った。

「思い出してしまったの…自分が死んだこと」
「っ……」
「真央…どうして…」
「…もう1度君に会いたかった…あれで終わりなんて嫌だった…あんな、あんな終わり方…っごめん真理、ごめんっ…」

真央は床に頭をつけて謝り続けた。ただひたすらに、泣きながら。

「真央…顔上げて、真央…」
「ごめっ…真理、ごめんっ…真理、」
「真央!!」

真央は顔を上げた。鼻水も涙も全部垂れ流したグチャグチャの顔を。真理はそんな彼をゆっくりと抱き締めた。

「真理…」
「真央…大丈夫よ。私…幸せだから」
「っ真理…」

しっかりと真理を抱き締め返す。

「幸せだから」

真理はもう一度彼にそう告げた。






「真央、写真撮りましょう」

突然彼女が言う。楽しそうにカメラを構えている。

「えーそれなら美音が産まれてからにしようよ」
「いいじゃない。私と真央と、お腹の中の美音と3人で」
「…まあいいけど」

机の上にカメラを置いて、ソファに座る。彼は真理の肩を抱き、2人で真理のお腹に触れた。
その場でプリントし、2人で眺める。そこには幸せに満ちた家族の姿が写っていた。

「3人の思い出ね」

真理が微笑んで言った。

「これから増えていく思い出の最初の1枚だな」
「…そうね」

真理は真央の手から写真を受け取り、壁に貼った。

「これから何かあったら、この写真を見て今日のことを思い出しましょう」
「何かって、何が起きるんだよ」
「子育てなんて、何が起こるか分からないわよ?」

ふふ、と真理は彼の方を見、笑った。

「そうだな」

と、真央も笑い返した。真理は写真に向き直る。

「…真央、私はあなたが寂しいときにも、そばにいられないけど、辛いときは、私を思い出していいのよ」

彼に背を向けたまま、真理は言った。真央は眉をひそめる。

「何…?」

気が付けば真理は、壁に手をついて拳を握り締め、震えていた。

「私ずっと…ずっと真央を見守ってるから…真央の心の中で、生き続けるから…っ」
「真理」

真理は振り返り、目に涙を一杯に溜めて彼に抱きついた。

「真央…ごめんなさい…!」

「死に際にあんなこと言ったけど、訂正させて…っ」



 
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ