小説4
□拾弐
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「なあ奥入瀬」
「なあに?」
「お前には苗字がないのだな」
「ええ。それがどうしたの?」
「いや、奥入瀬も美しい名前だが…お前にはもっと相応しい名前があると思うのだが」
「まあ。お聞かせ下さいな」
「ん…白菊、と」
「しらぎく…?」
「雪のように白く美しい花だ。お前のように」
「まあ素敵。今日から私、白菊になるわ」
「奥入瀬はどうする?」
「奥入瀬は…苗字にするわ。奥入瀬白菊。如何?」
「ん、よいのではないか? 実に美しい名前だ」
雪妖記 拾弐
白菊は目を開けた。
ぼんやりとしたまま起き上がる。
随分懐かしい夢を見た。いや、昔のことすぎて忘れていたことだった。そういえばそんなことがあったな、と思う。いつのことだったかももう思い出せない。
「…あの人に嘘を吐いてしまったわ」
白菊は呟いた。人間の住処を訪ねたことはないと言った。住処を訪ねるほど人間に執着したことがないのだと言った。それも嘘だということになる。
「嘘を吐いていたら、嫌われてしまうかもしれないわ。どうしましょう…」
白菊は立ち上がった。山を降りて隆茂の家へ向かう。今日は大学は休みだと言っていた。だからずっと家にいると。家に着いてインターホンを押す。中から物音が聞こえた。少ししてドアが開く。
「…どうしたの? 早いね」
寝癖にパジャマ姿の隆茂が驚いた表情で言った。
「あ…ええ。あの、お話が、あって」
白菊は自分を落ち着かせて言った。
「話?」
白菊は黙って頷いた。
「あー…まあ、入って」
招き入れられ、玄関で草履を脱ぐ。どうやらまだ寝ていたらしく、布団が敷かれていた。
「ごめんなさい。起こしてしまったのね」
「あーいいよ。どうせ起きるとこだったし。座ってて。着替えるから」
言われたので、とりあえず白菊は机の横に座る。
着替えを終えた隆茂はキッチンへ向かい、冷蔵庫に入れてあった白菊用の紅茶を持ってきた。
「…ありがとう」
「で、話って?」
心なしか、いつもより隆茂の態度が冷たい。白菊はいつもとは違う理由でドキドキしていた。
「あの…私ね。私は…貴方に、嘘を吐いていたみたいなの」
「…嘘?」
隆茂の表情が僅かに険しくなる。白菊は頷いた。
「前に、人間の住処を訪ねたことはないと言ったでしょう?」
「…うん」
「それから、住処を訪ねる程人間に執着したことがないとも言ったわ」
「…言ったね。それが嘘なの?」
白菊は再び頷いた。
「随分昔に、ある人間の住処を訪ねていたことがあったの。彼とは、とても親しくしていたわ。けれど…忘れていたの、ずっと。今朝その時の夢を見て…それで、思い出したの」
白菊は黙った。隆茂の言葉を待つ。少しして隆茂は「…それだけ?」と言った。
「え? …ええ」
白菊が答えると、隆茂は深く溜め息を吐いて頭を抱えた。
「なんだ…」
「え?」
「君がすっごく深刻そうな顔してるから、別れたいとか言われるかと…」
「ええ? そ、そんな事ないわ。私はただ、嘘を吐いていては貴方に嫌われてしまうと思って…」
それを聞いて、隆茂は再び溜め息を吐く。
「君…忘れてたんでしょ? そのこと」
「…ええ」
「ならそれは嘘じゃないよ。忘れてただけなんだから。君は嘘なんて吐いてない」
隆茂が断言すると、白菊は安心したように微笑んだ。
「そう…よかった…」
「それはこっちのセリフだよ。ホント何言われるかと思ってドキドキしたんだから!」
「私だって! とてもドキドキしたのよ?」
言い合って2人は笑った。お互いに余計な心配をしていたのが、おかしくてたまらなかったのだ。
「で、」
一頻り笑ったあと、隆茂が言った。
「その人はどんな人だったの?」
「そうね…とても優しい人だったわ。あの頃は時々、里の様子を見に山を降りていて、その時に出会ったの。ああ、貴方によく似ていた」
「…僕に?」
「ええ」
「その人とは、どうなったの?」
「……離れたわ」
「離れた? 別れたってこと?」
白菊は頷いた。
「“好きだけど、抱き締められない相手を末永く愛すことはできない”」
隆茂は目を見開いた。
「…そう、言われたの?」
「ええ」
「それで、君は?」
「…了解したわ」
「なんで!」
「だって当然でしょう? 誰でも、触れられない女を一生愛すことなんてできないわ。私は人間ではないの。仕方がないのよ」
白菊は悲しげに微笑んだ。
「…それは僕も、僕も君を一生愛すことはできないっていうこと?」
「……」
「僕が離れていくのも当然だって? そうやって受け入れるの?」
「……っ」
「なんか言ってよ」
「…貴方がそう言うのなら、仕方な」
「ホントのこと言ってよ!」
突然隆茂が声を張り上げ、白菊はビクッと肩を震わせた。白菊が徐々に表情を崩していく。
「…………嫌よ…貴方に会えなくなるなんて、嫌よ…っ!!」
「……ごめん」
隆茂は言った。
「…何故謝るの? …もう終わりなの?」
白菊が悲しそうな顔をする。
「なっ…そんなワケないじゃん!! たとえ別れて欲しいなんて言われても絶対別れてなんかやらないからな! 僕はただ…わざわざ言わせるようなことしちゃってごめんって…言いたかっただけだから」
「そう…よかった…」
白菊は力なく笑う。ふとした瞬間に抱き締めそうになる腕を、隆茂は必死に押さえていた。
「僕は! 何があっても君を離すつもりないから」
それを隠すように隆茂は言う。白菊は少し目を大きくしてから微笑んだ。
「……ありがとう」
「その人と僕は違うからっ」
「ええ。分かっているわ」
白菊は微笑んだままだ。隆茂は少し間を空けて訊いた。
「……その人とは、それっきり?」
「え? ええ。それきり、あの人のことは忘れていたの」
「好きだった人を、そんな簡単に忘れんの?」
隆茂には信じられないことだった。それを聞いて、白菊は表情を変える。
「…いいえ。忘れられないから、忘れたのよ」
「…どういうこと?」
隆茂は眉をひそめた。
「自分で消したの。あの人に出逢ったという記憶を」
「なっ…そんなことできるの…!?」
「え? ええ。雪が溶けるように。すぐよ。あの人にも私のことは忘れてもらったわ」
隆茂は動揺しているが、白菊は当たり前のようにサラッと言った。
「え、じゃっじゃあ…、その人は君のこと、」
「覚えてなどいなかったはずよ? 死ぬまで」
「……なんで、」
隆茂はショックを受けていた。自分が愛した人を忘れるなんて、そんな悲しいことがあるだろうか。白菊は瞳を伏せた。
「…後ろめたさを感じて欲しくないもの」
「でもっ…それで君は…!」
「いいのよ? 私も忘れていたのだから」
白菊は隆茂を見て少し笑った。今度は隆茂が瞳を伏せる。
「…忘れるなんて、悲しいよ。どんな悲しい別れ方したって、その人のこと覚えてたいよ」
「…そうかも、しれないわね」
白菊は言った。その時のことを思い出しているのかもしれない。隆茂は顔を上げた。
「その人のこと、今でも好き?」
「…いいえ。今は貴方が好きよ。貴方だけよ」
白菊は言って笑った。
「…そっか」
隆茂も安心したように笑う。すると隆茂の腹部から音が聞こえてきた。白菊が目を丸くする。
「今の…」
「…安心したら、お腹空いてきた」
隆茂は恥ずかしそうに笑い、白菊は申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい…! まだ朝御飯を食べていなかったのよね…?」
「あーいや、うん…ごめん」
「何故? 謝る必要はないわ。私も起きてすぐにきたのだから」
隆茂は一瞬白菊が何と言ったのか分からなかった。
「…え? じゃあ君もご飯食べてないの?」
「え? ええ」
「なんだぁ…」
隆茂が安心し、再びお腹が鳴った。隆茂はまた恥ずかしそうに笑い、白菊も可笑しそうに笑った。
「じゃあ一緒に食べよう。僕作る」
「え、いいの…?」
「当たり前じゃん!」
隆茂は立ち上がってキッチンへ向かう。白菊がその姿を見ていると、隆茂がキッチンの方を向いたまま
「…今日は1日一緒にいられるね」
と呟いた。耳が紅くなっているのが見える。白菊は目をぱちくりさせた。そしてそれを考えて、とても幸せな気持ちになった。
「…ええ。ずっと、一緒ね」
そして穏やかに笑った。
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