DARKER THAN BLACK

□孤独に現れる彼は
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 空を見上げれば既に茜と紺が混じり合っていた。
 薄い白色の月も小さく浮かび上がっていて、早く帰らなくては、と蘇芳は頭の隅で考える。

 何となく外へ散歩でも行こうかと出てくれば、マオ命名ピンクのキコに見つかった。
 そのまま薔薇の何やらとかいうアニメの話を永遠とされ、動きにくい服を着せられ、何だかんだでこんな時間。

 商店街は夕食の材料買いの主婦や部活終わりの学生で賑わい、他方から甘辛い献立の匂いが漂ってくる。
 逃げる身であった蘇芳にとってこのように人で混雑する風景を見るのは久しぶりだった。

「平和……」

 彼らが疎ましいわけではない。
 ただ、もしもあのままロシアで何もなかったのなら自分も友人と帰りを共にしていたのかもしれない、そう思った。

 学校の帰りに友人と、親には秘密で食べ物を買って、親しい者と語り尽くして夜遅くに帰り、叱られながらも愛されていることを確認する。

 そんな当たり前の日常が待っていたあの過去の日はもう戻ってはこないのだろう。

 だが何故だかこの平穏な日々を送っている街が幻想のようで、自分はその中へ迷い込んでしまったのかという錯覚をしてしまう。

 もしそうなのだとしたら、昔の自分はきっと喜んだ。
 おかしな世界へ連れ込まれ、人を傷付る。こんな空間から抜け出せるのなら、幻想でも夢幻でも構わない、そう思った。

 ――しかし、今は。

「なんか……怖い」

 どうしてかは蘇芳自身にも分からない。
 長く求めていたものだったはずなのに、酷く恐ろしかった。

 子供が母を求める声。
母はそれに笑顔で答えると子供も嬉しそうに笑う。

 友人でたわいのない話で盛り上がる学生たち。
 趣味や色恋と話の種は尽きることを知らず、茜の夕日に背を向けて歩いていく。
 長年着続け、古くなった制服を揺らす姿は蘇芳も経験するはずであったもの。

「なんでかな……」

 本来なら羨ましく感じるであろう景色に蘇芳は何とも言えない恐怖を感じた。
 漠然としたそれに蘇芳は小さく息を飲む。
 自分もターニャも契約者などにならず、ニカも死ぬことなく。大好きな写真を撮って、恋人の二人の幸せな顔を収めていく。

 こんなにも幸福で、こんなにも求めていたことなのに、何故こんなにも怖いのだろう。

 徐々に呼吸が荒くなり、目の奥が熱くなった。

 周りの雑談も喧騒も聞こえない。ただ、自分の鼓動と呼吸音だけがいやに響いた。
 このまま涙を流してしまおうかと一つ息を吐き出そうとした、その時。

「……おい」

 随分聞き慣れた低い声が蘇芳の耳に届いた。
 それから夕日で若干紅く染めた黒い髪に、どこまでも深い濃紺が潤んだ翡翠の瞳に写る。
 それは大嫌いなこの世界に連れ込んだ保護者。

「……黒」

 掠れた高音が彼の名を呼ぶ。
 当の黒髪は表情なくこちらを見下ろし、潤う翡翠を見ると小さく溜め息をついた。

「何をしている」

 小さくてもよく通る彼の声に蘇芳は見上げる。
 いつも通りの無表情だが、眉間に少しばかりの皺を寄せている。その様子は機嫌が悪そうに見えなくもない。
 しかし何故彼がここにいるのかが分からない。
 普段から人目を避けて行動する彼は、この人が混む時間帯に買い物をすることは少ない。

「迎え、来てくれたの?」

 きっと違う、そう思いながらも尋ねてみる。

 すると目の前の黒髪はあからさまに眉間の皺を深くして、蘇芳から顔を反らした。

「ち、違う……買い物で偶然」

 見つけたんだ、と徐々にしぼんでいく声で付け加える。
 それに蘇芳はそっけなく「あ、そう」と返そうとしたが、保護者の手元を見てやめることにした。
 その手元には買い物袋らしきものは持たれておらず、財布も持参していない。

 酷く出来の悪い嘘。

 また眉間に皺を寄せ、不機嫌そうに顔を反らした黒髪の何とも分かりづらい優しさが心地よかった。
 いつもは無表情で無機質な印象を与える彼の、たまに見せるこんな人間臭いところが好きだったりする。

「……ありがと」

 彼に聞こえたか分からない小さな声で言ってみる。
 それは保護者の耳に届いたのか届いていないのか、「帰るぞ」と一言言って、夕日の方へ歩いていってしまった。
 その顔が若干赤いのは夕日に照らされているからだけではないと思う。

 気付くと今まで蘇芳を支配していた恐怖は消えていた。
 何故なのか、と考えて離れていく黒を見る。

「……そっか」

 きっと平穏が戻ったら彼と離れてしまうから、それが怖かったんだ。
 本当のところはどうなのか分からないけれど、今はそう考えて蘇芳は遠退く黒髪を追って走り出した。





‐‐‐‐‐‐‐‐

 「ち、違う」を言わせたかっただけ。




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