DARKER THAN BLACK
□素晴らしき桃色の日
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冬が終わろうとするこの季節が蘇芳は好きだった。
緑が生い茂り、大地を覆っていた雪が溶け水となって生命を育む季節は素晴らしいと思えた。
しかし、まだ人間には寒さを感じる三月の上旬。
蘇芳は新鮮な空気を出し入れしていた窓を閉め、小さく身体を震わせた。
「……寒い」
空気は真新しくなったが、暖房器具のないこの部屋では先程より温度は幾らか下がったに違いない。そこらに落ちていた毛布を取り上げ、身体に巻き付けた。格好は悪いがこの際仕方ない。
それから小さくくしゃみを鳴らして、数十分前に保護者が入った台所を見た。
何やら包丁とまな板がぶつかり合う音は聞こえているので、食べ物を作っているのだろうが、肝心の彼は一向に姿を現さない。
料理は素早く確実に、がモットーの口煩い黒髪はいつも調理は手早いくせに美味しい。しかも味だけでなく盛り付けまで完璧なのだから、感心と同時に疎ましさも覚えた。
だが、今日は何故かいつもより遅い気がする。
台所を動き回っている気配はするし、彼に限って失敗して持って来られない、というわけでもないだろう。
「……何かあるのかな?」
そう言えば今日は普段よりも大量の食材を買っていた。彩りも鮮やかだったと思う。
料理のことに口を出せば「雑草を作る奴に何が分かる」なんて返ってくるから何も言わなかったが。
小さく首を捻って、蘇芳は次に鼻を動かした。
油の匂いはしない。何かを焼いているような焦げの匂いもしない。
健康だのバランスだのと、どこぞの姑かと疑う程言っている黒髪は自分のことを棚に上げて揚げ物を好む。
それなのに今日はその匂いも音もしない。
――一体何なのだろう。
そこまで考えて「何をしている」と言う低い声で意識を現実に引き戻された。
目の前には今の今まで姑だの何だのと頭の中を埋めていた黒髪が立っている。
「布団被って冬眠ごっこか?」
一瞬何を言っているか分からなかったが、自分が身体を毛布を巻き付けていることを思い出し、慌ててそれをはいだ。
無表情だが嘲笑っているような濃紺の双眼から顔を背けて蘇芳は少し顔を赤くする。
「違う」
それだけ言って蘇芳は翡翠の瞳を伏せた。すると低い落ち着きのある声は「そうか」と答え、手に持っていた盆を卓に載せる。
何となく気になっていた本日の昼食への好奇心で反らしていた顔をテーブルの方へ向けた。
「わあ……」
目に映ったのは色鮮やかな食材たちだった。
下はご飯が平たく土台を築き、その上には玉子から始まり海老やイクラ、菜の花や桜の花びらまで乗っている。
何とも春らしい暖かな色が揃ったこの食べ物に蘇芳は酷く感動して目に焼き付けるように凝視した。
「何、これ!」
黒に言われたことに機嫌を損ねていたことなど当に忘れた、と言わんばかりに蘇芳は色鮮やかな昼食を指差す。
その次に余程嬉しかったようで蘇芳は黒の腕にしがみ付いて翡翠の瞳を彼に向ける。
それには若干驚いて黒は無表情だった顔を引き吊らせ、一歩後退った。
「……ちらし寿司」
だが、答えないわけにもいかない、と低い声は小さく答える。
それを聞くと蘇芳はまた視線をちらし寿司へ向けて、好奇心の眼差しを隠そうともせず見つめた。
その口元は黒が教えた名称を連呼している。
「……雛祭りだから」
低い声が蘇芳の言葉の隙間に挟んだ。
蘇芳も雛祭りについてはある程度の知識はあった。
女、それも子供限定の祭であること、その時には雛人形なるものを飾ること。
彼から出た言葉が意外だったため「え?」と聞き返してしまった。
つまるところ雛祭りだから女である蘇芳のためにちらし寿司を作ってくれたわけだ。
あの不器用な黒髪が自分だけのためにちらし寿司を作った。
嬉しいのだが、恥ずかしい気もして蘇芳は顔を下に向けてうつ向く。その綻んだ顔を目の前の男に見せたくはなかったから。
黒も黒で恥ずかしいようで「雛人形なんて目立つ物は買えないから仕方なくだ」なんて言い訳がましい事を口にしていた。
それでも蘇芳には分かりづらい彼の優しさが嬉しくて下げていた顔を上げる。
「あ……ありがとう」
その喜びを悟られないよう、ぶっきらぼうに言ったつもりだ。だが、それはきっと失敗していたに違いない。
きっと声は上がり、翡翠の瞳は輝いていた。
まあ、それは嬉しいのだから別にいい。
「……別に」
仕方なく、という割には手の込んだちらし寿司を口に入れれば酢飯の酸味が口の中に広がった。
その味は料理上手の彼による寸分の狂いもない美味へとまとめられている。
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