DARKER THAN BLACK

□記憶の中に埋まった彼を
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黒記憶あり。



 前世の記憶とか輪廻転生とか、そんな霊的なものを信じてはいなかった。
 生まれる前から愛し合っていたなんて言う廃れた口説き文句にも反吐が出る。

 蘇芳はそんなことを考えながら小さく溜め息を吐いた。
 それと同時に、授業終了のチャイムが鳴り、黒板の隅に書いてある「y=6」をノートに写す。

「あー……終わった」

 そう呟いて、どうも好きになれない数学の教科書を鞄の中にしまった。
 それから黒板の横にかけられている時計に目を移し、3時50分を確認して、蘇芳はもう一度小さく溜め息を吐く。

 金曜日の最終授業を数学にするのは本当にやめてほしい。
 一週間の最後が数字の羅列であると、非常に萎える。

 翌日が休みであると気持ちが高揚するのか、大半の教室が騒々しくなる。
 極一般的なこの教室でも同様の現象は起き、休日の遊びの約束だとか、これから遊べるかとか、教室はいつも以上に騒がしい。

 その中で忌まわしい数学の教科書が入った鞄を、蘇芳はこれまた忌まわしそうに担いでその煩い教室を出た。

「なんか、退屈……」

 蘇芳が制服を揺らして歩くこの細い路地は、彼女の正規の通学路ではない。
 ただ、人の少ないこの細道は帰宅時間を少しばかり早めてくれるのだ。

 毎日の生活が嫌なわけではない。
 両親も友人もいて、数学を除けば学校だって苦痛ではない。休日もカメラ片手に散策したりと、充実していた。

 だが、何かが足りない。

 それはとても漠然としていて、実際何を求めているのか分からない。
 ただ途方もない虚無感のようなものが自分を襲った。

「僕は、何をしたいのかな」

 自分のことであるのに全く分からない。これが思春期のアイデンティティー構築の過程であると言われればそれまでだが。

 深い深い溜め息を吐いて、コンクリートで塗り固められた地面を見て歩く。

 代わり映えしない灰色の地を一歩ずつ進んで、そろそろ路地を出るところだろう、と顔を上げた瞬間。

「ご、ごめんなさい!」

 顔面に感じた衝撃で、蘇芳は小さな悲鳴と反射的な謝罪を口から出した。
 普段から人通りの少ない道であるからと、下を向いて歩いていた自分に非がある。

 そう考え、蘇芳はゆっくりと顔を上げた。

 ぶつかった相手はやはり人で、黒い髪と濃紺の瞳が特徴的な男性。蘇芳は頭を下げてもう一度「すみません」と謝った。

「……いや」

 低く小さな声。

 聞いた瞬間、蘇芳は自分の中の何かが高鳴った気がした。

 失礼だと思いながらも、目の前の男性を凝視してしまう。
 相手は中学生と接触事故を起こしてしまったからか、幾らか驚いたように目を開いている。

 聞いたことがある声。
 記憶を辿っても答えは出ない。

 それは頭の中ではない、強いて言うならば心のような、とても曖昧なものの奥底から訴えていた。

「……あの」

 かろうじて出た声は震えている。だが、どこかで会ったことありますか、なんて尋ねられるわけがなかった。

 しかし、何かがあるのだ。
 今までに積み上げられてきた思い出のもっと下に。

 これがもしかしたら自分が今まで信じて来なかった前世や輪廻なのかもしれない。
 自分の頭は呑気にもそんなことを考えていた。


「……蘇芳?」

 静まり返った路地に低い声が響く。
 はっきりと聞こえたその低音に蘇芳は翡翠の瞳を見開いた。

 間違いなく、目の前の男は自分の名を呼んだ。

 蘇芳は知っている。
 この優しく名前を呼ぶ男を。幻影と重なる目の前の男と確かに会ったことがある。

 辛い時も楽しい時も、隣で呆れたように微笑んでいた彼を。

 蘇芳は制服のスカートを強く握り声の震えを必死に堪えた。

「今更、何しに来たんだよ」

 塞き止めていた何かが取れたように、頭の中に溢れてくる。

 友人の死、ライフルの火薬臭、消えていく記憶。

 その中で無感情な瞳を向ける黒髪もいた。
 初めは殺したいほど憎んでいたのに、それは徐々に愛しいという感情に変換されていって。

 その時、この男の前では泣かないと決めたはずなのに、再会してしまった今、涙が頬を伝い、止まらない。

 悪い、と謝る時に気まずそうに目線を反らす仕草も変わってはいなかった。

 ――あの頃と同じ。

 目の前の男に今までどれだけ悩んで来たか説教しよう、と考えはするが、どうもできそうにない。
 代わりに涙を流したままの翡翠の目を細め、小さく笑ってやる。

 それから長身の彼に抱きついて、ゆっくりと言う。

「久しぶり、……黒」

 普段は無感情な濃紺を今日は珍しく不安そうに細めたが、程なくして黒も「ああ」とだけ返した。

 触れ合った手の体温で、蘇芳は心にできた穴が埋まった気がした。



‐‐‐‐‐‐

 あとがき。



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