何でも辞典

【ふ】 4件

【吹き輪 (ふきわ)】

江戸初期から武家の姫君が結った髷。

髷の部分を丸く仕立てる。
勝山髷の原型ともいわれる。

武家の姫は「吹き輪」、公家の姫君は平たい「葵つと」の「つぶいち」と呼ばれる髷を普段は結い、
正式な場では「おすべらかし」を結った。


「愛嬌毛」と言われる左右にたらした後れ毛の房を除いて勝山髷の輪が広くなったものと変わらないが、
満艦飾といった多種多様な髪飾りの多さと豪華さが特徴。

「両天簪」といわれる豪華な細工がある金属の簪を挿し、
使わない事もあるが、髷の中に「鼓」と言われる楽器の鼓の形をした装飾品で髷の整形をして、
根元には赤地錦などをくくりつけた。

前髪には金箔などを漉き入れた染め紙、
左右にびらびら簪と姫挿しを挿す。


だが、これは文楽や歌舞伎の中の事で、
実際はと言うと、銀や鼈甲で統一した飾りで、落ち着いた雰囲気の格調高い髷である。


京都の年長の舞妓さんが、祇園祭の間だけ結う「勝山」は、
おくれ毛がないことを除けば、ほぼこの「吹き輪」と同じもの。


【藤壺 (ふじつぼ)】
京都御所、内裏における後宮の一舎・飛香舎のこと。
天皇の御座所・清涼殿に近く、高位の女御や中宮が住んだ。


紫式部著、「源氏物語」の中の登場人物で、
主人公、光源氏の父・桐壷帝の女御で、先帝の后腹の女四宮。

藤壺の宮、藤壺の中宮、薄雲女院とも記される。


源氏の母・桐壺更衣に似た美貌の女性で、
更衣の死後、桐壺帝の所望で十四歳で入内。

帝は藤壺と源氏を実の母子のように愛した。

藤壺が母に似ていると教えられた源氏は、
五歳上の彼女を慕い、
臣籍降下後も彼女を敬慕。
次第に恋慕の情に変わっていく。

藤壺は病で里下がりした折源氏に愛され、
源氏に瓜二つの禁断の皇子を産む。

帝は彼女が産んだ皇子を実子として疑わずに溺愛。

同年秋、中宮立后。


桐壺院が崩御し、院の女御で朱雀帝実母・弘徽殿太后が権力を持ち、
源氏の権力は衰え、
皇女でありながら後見のいない藤壺は、源氏の絶えない求愛を退け、子を守るため出家。

実子である東宮が帝となると国母となり、
先代東宮と源氏の元愛人・六条の御息所の皇女、
前斎宮の秋好中宮の入内を勧めたりと政治にも参政。

三十七歳で病に倒れ崩御。


物語の第一部・二部を通じて、
光源氏の憧れ、理想の女性として描かれている。


【藤原彰子 (ふじわらのあきこ)】

平安時代中期の女性で、
時の摂政、藤原道長の長女。
時の天皇、一条天皇の中宮である。


九百年代後期、摂関家藤原北家、藤原道長と正妻倫子との間に生まれ、
十二歳のときに後宮に入内、
しかしすでに一条天皇には父の道長の兄、道隆の娘、定子が中宮としてあり、
女御として飛香舎…藤壺に入る。

しかし定子は、父、道隆の死や、
兄、伊周の左遷などて後ろ盾をなくしていた。

入内から数年後、
藤原行成らの尽力により、過去前例のないことではあったが、
定子を皇后に、彰子を中宮に昇格させるとする、
二后並立がなる。


やがて、第三子である姫宮、?子(?は女偏に美)の出産がもとで定子が逝去し、
名実ともに彰子が一条天皇の后となる。


二十代になってから、
彰子はやっと子宝に恵まれ、
二人の皇子を天皇とし、国母となる。


女房に、紫式部、赤染衛門、和泉式部などがいる。


院号は、上東門院。


【藤原詮子 (ふじわらのせんし)】




藤原詮子は平安時代、第64代円融天皇女御であり、
第66代一条天皇の国母である。

摂政関白・太政大臣藤原兼家と母・時姫の次女で、冷泉天皇の女御・超子は同母の姉妹。



十七歳で入内し、同年11月4日に女御の宣旨を受ける。

従四位下に叙せられ、同年に父の東三条邸で第一皇子懐仁親王(一条天皇)を出産。

しかしが円融天皇の皇子を生みながら、関白藤原頼忠の娘の遵子に后の座を奪われ、父と共に天皇を恨み、里邸の東三条邸に篭った。

また、天皇のたびたびの召還に応じなかった。



しかし、息子の一条天皇が即位すると形勢は一変、寛和2年の7月5日に皇太后に冊立。

正暦2年2月、円融法皇崩御。

詮子は同年9月16日に出家し、皇太后宮職を停め、院号宣下を受けて、居宅の東三条邸に因んで東三条院と称した。

これが女院号の始まりである。


一条朝にあって国母として強い発言権をもち、
しばしば政治に介入したため、「小右記」には国母専朝と非難された。


また、弟・道長を可愛がり、兄道隆・同道兼没後の執政者に彼を推し、甥伊周を圧迫。


厚い信仰心をもち、真如堂・慈徳寺を建立。



一条皇后定子が難産で崩御した際、残された第二皇女子内親王を養女とした。


長保3年、院別当の藤原行成の屋敷にて崩御。



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