何でも辞典

【た】 5件

【平徳子 (たいらのとくこ)】


時の権力者、太政大臣平清盛と正妻時子の娘。
時の帝、高倉天皇の中宮であり、安徳天皇の母である。


平安時代後期、武家平家の頭領清盛の娘として生まれ、
権力の象徴のように后がけさせられ、叔母で、後白河法皇と中宮、建春門院滋子の子である高倉天皇の後宮に入る。


のちに中宮となり、十七歳のときにのちの安徳天皇を産む。

やがて源平合戦がおき、
追われるように安徳天皇を連れて平家と共に都落ちする。


壇之浦の合戦で、母時子が安徳天皇を抱いて海に沈んだのに倣い、
自らも海に身を投げるが源氏方の兵に救われる。


生き残ってのちは、出家し寂光院に庵を結び、
平家一門と息子安徳天皇の菩提を弔って過ごした。

平家物語では、ここに後白河法皇が訪ねてきて、ともに涙をながしたという。



院号は建礼門院。


【高島田 (たかしまだ)】
日本髪の一種で、古墳時代からある島田髷の系統。

根(元結の位置)が高いものは武家の女性が結い、
町娘や、芸妓・遊女などにも結われた。


島田髷の系統の中では、最も格が高く、
上流武家の未婚女性は、正式な場では必ずこれを結った。


形は、頭の高い位置で結ったポニーテールを前の方に折り曲げて、毛先を隠したような形。


上流武家の女性が結った高島田にも更に派生があり、
花嫁が結う「文金高島田」、
高島田よりも少し格の落ちる武家の未婚女性や、
京阪の中流以下の女性が結った「中高島田」、
根元に丈長を巻かない京の芸妓が結った「芸妓島田」などがある。


また、形ではなく、飾りによって呼び名が変わるものもあった。

髷に鹿の子を巻きつけた「高結綿」や、
遊郭の十代に入ったばかりの禿が結った「禿島田」、
現代では正月や八朔等の時に舞妓が結う京風の高島田である「奴島田」などがそれに該当する。


とにかく、
江戸時代の未婚女性の一番格式高い髪型、と覚えれば間違いはない


【太夫 (たゆう)】

遊女、芸妓における称号。


太夫は、江戸時代初期に誕生、
女歌舞伎が盛んだった当時、芸の上手い役者が呼ばれたのが始まりだといわれる。

やがて遊廓ができ、遊女に階級が生まれる。
中でも才色兼備の最高位(最高給)の遊女がこう呼ばれるようになった。

太夫が置かれた遊郭は、京の嶋原、江戸の吉原、大坂の新町。

主に公家、大名、旗本などの上流階級を相手にした。
そのため、太夫の衿の折り返しは、
御所への昇殿を許された者であるということの証である。

しかし、高額な太夫を買う事のできる豪商が次第に姿を消していくにつれて、吉原では太夫が宝暦年間までに消滅。

しかし、嶋原や新町では依然太夫が活躍。


1958年の売春禁止法により、遊郭は姿を消し、
それに伴って太夫たちも姿を消していった。

しかし、嶋原において、太夫は身売りをしなかったので、
遊女よりも芸妓に近いとも言える(嶋原遊女の最高位には違いないが)。



現在でも嶋原には太夫が4名在籍し、活躍しておられる。


【大弐三位 (だいにのさんみ)】

平安時代の女流歌人、女房である。

父は摂津守・藤原宣孝、母は上東門院女房・紫式部。

本名は藤原賢子。

1001年、3才頃に父と死別し、18才頃に母の後を継いで一条院の女院藤原彰子の女房として出仕。

初めは祖父の任国である越後から「越後弁」と呼ばれた。


後、関白藤原通兼の次男兼隆と結婚し、一女をもうける。

1025年に後の冷泉帝の乳母となる。

1037年までに東宮権大進の高階成章と再婚し、為家を出産。

1054年の冷泉帝即位の際に従三位に昇叙、夫成章も大宰大弐に就任。

この事から、自らの官位と夫の官名をとって「大弐三位」と呼ばれるようになる。

家集「大弐三位集」があり、
「後拾遺和歌集」に37首が入選。

母・紫式部と共に小倉百人一首にも入選している。


【だらりの帯 (だらりのおび)】
だらりの帯とは、京都の舞妓の締める帯のことである。

通常の帯と異なり、幅は丸帯、長さは6メートル以上ある。
羽が二つある文庫系の帯結びであるが、現代舞妓の帯結びにはアレンジが施されている。

戦前の舞妓のだらりの帯は羽が不二つに割れていたが、現代舞妓のだらりの帯は羽が交差している。


羽の端には舞妓が所属する置屋の定紋が入っている。

季節によって、織・刺繍・染・夏帯と使い分けている。
正装時は金糸銀糸の豪華な織の帯が用いられる。


だらりの帯はもともと江戸時代に商家の娘たちの間に流行した帯で、
それが現代の舞妓に受け継がれた。

戦前は10代前半の少女が舞妓を務めていたため、
この長い羽が舞妓の幼さを強調する役割もあった。



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