何でも辞典

【し】 2件

【静御前 (しずかごぜん)】

平安末期〜鎌倉初期の女性で、
源氏の大将・源九郎義経の愛妾。白拍子。
母・磯禅師も白拍子である。


義経が兄・頼朝と対立して都落ちする際に同行したが、
吉野山で義経と今生の別れをする。

京への帰途、山僧に捕えらられ、北条時政の元へ引き渡される。

1186年に母と共に鎌倉に送られた。


同年四月、静は頼朝や御台所の北条政子らが見る中、
鶴岡八幡宮で鎌倉繁栄の舞を舞うことになる。

しかし、舞ったのは義経への想いだった。

「吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」

これに頼朝は激怒するが、
政子は大勢の鎌倉方の前で義経への愛を舞った静に、
「私があの者の立場であっても、同じように舞うでしょう」
と執り成した。


この頃、静は義経の子を身ごもっており、
頼朝は「男児ならば殺し、おなごならば助ける」と命じていた。

これは、頼朝が幼い時に敵である平氏の棟梁・平清盛に命を救われておきながら、
今、平氏に仇なそうとしていることから、
清盛の二の舞を踏まない為にしたからだとか。

閏七月、男児を出産した静は頑として赤子を離さず、
磯禅師が赤子を取り上げて頼朝の家臣に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。

九月、静は母と共に都に返された。


その後の彼女の消息は不明。


【嶋原 (しまばら)】
京都の花街。
正式名は西新屋敷。
上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町で構成されている。

現在でも輪違屋が営業を行っている。


桃山時代に豊臣秀吉の許可で、二条万里小路に「二条柳町」が開かれる。

江戸時代になると六条付近に移され、「六条三筋町」と呼ばれるようになる。
後年に朱雀野付近へ移り、「嶋原」と呼ばれるようになった。

江戸の吉原とは違い、遊女たちは手形が必要ではあるものの廓外へ外出ができ、一般人も男女問わずに出入りができた。


幕末には西郷隆盛や新撰組らが出入りしていた。

昭和後期に茶屋や太夫などの人数が減少、多くの建物なども取り壊され、現在は「大門」、「輪違屋」、「角屋」だけが残っている。


太夫とは能や歌舞伎で秀でた者に与えられた称号で、
最初は京都の女歌舞伎で活躍した女性が「太夫」と呼ばれた、後に技能、教養が高い最高位の遊女の名となった。

「こっちのたゆうさん」から「こったいさん」とも呼ばれる。

かつては正五位の地位をも与えられ、もとは御所の公家、皇族を相手にしていたらしい。


吉野太夫、夕霧太夫、桜木太夫などが有名。

現在、太夫は振袖も含めて3人。

前で5角形に結ぶ帯は、「心」の字を表すとされる。



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