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□Last Word
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「Last Word」
緩やかに、重い紫煙が肺に充満する。
それと同時に、赤く燃え盛る炎も、鉄が焦げて噎せるような異臭も、悲鳴のような轟きも、全てが遠のいていく。
手足が痺れ、感覚が薄れていく。己の心臓の鼓動さえ、霞みかかって脳に届く。
鼻から紫煙を吐き出して、再び吸い込む。
何度も、何度も、それを繰り返す。
麻痺した脳は絶頂のような浮遊感を生み出し、体はそれを喜び、至福に脳も喜ぶ。
そうして、感情も己さえも消えかけ満足気に双眼を閉じた瞬間、不意に少女の声が聞こえた。それは、酷く懐かしく、酷く暖かい声だ。
―――リキ、忘れないでね。
―――大事なものをつかむ手はふたつしかないの。
だから、どんなに大切なものでもみっつめは捨てるしかないのよ。
そう己に諭した年長の少女の声が、脳裏に響く。
――― 一番大事なものは、絶対に離しちゃダメ。
ピクリと微かにリキは両手を動かした。
その声を覚えていたくせに、己はそれに背いた。
両手が一杯になってしまえば、己の足で、己の口で、強く掴みさえすれば平気だと思った。
己の意地もプライドも捨てられず、エオスへの羨望もミダスへの郷愁も何もかも大切だった。
浅ましく全てに縋りつき、そして、失った。
大切なモノの重さを理解せず己の未熟さを忘れ、気づいた時には、あまりの痛さに支えきれず、己から滑り落ちていったのだ。
それを掴む気力も体力も、それすらもなかった。
今、この手には何もない。
ミダスも、エオスも、チームも、ガイも。
『リキ』自身も。
何もない。
スラムの雑種ですら、人間としてすら、存在していない。
―――間違えないでね、リキ。
リキは気怠そうに閉じていた瞼を上げて、光彩を放つ黒々とした瞳で、小刻みに震える『何もない』腕を見つめた。
炎により照らされ、動く影が見える。ブラック・ムーンを含む灰が、ぱらぱらと微かに掌に落ちた。既に熱さを感じない。
微動だもせず、囚われたかのようにそれから視線を放せずに、リキは呼吸を続ける。
――― 一度捨てたものは二度と手に入らないんだから。
不意に手首を動かして、まだ意識的に動かせることを確認すると、その手をそっと隣に置いた。硬い感触が掌から伝わり、すぐに床とは違う感触を探り出して、手を止める。
冷たく、硬く、けれど、なぜか温かさを感じるそれを、リキは強く握りしめた。既にそれは、通常の半分にも満たない力でしかなかったが、それでも、強く、きつく、渾身の力で掴んだ。
決して、放さないように。
失わないように。
(あぁ、分かってる。アイレ。)
何もかも失ってしまったのならば、身軽になったこの手で、たった一つを掴むだけだ。
(絶対に――――離さねぇ…。)
何もない、両手で、両足で、口で、己の全てで。
それがどんなに重く、辛く、痛いモノでも、絶対に離れないように。
小刻みに震えるそれを、冷たく、硬く、けれど暖かい何かが柔らかく触れた。それが何であるかを理解すると、リキは口端を上げて再び瞼を落とした。暗闇に浮かぶのは、目の前の赤さではない。
己を掴む暖かさに促されるように、リキは口を動かした。
「 。」
轟音が響く。
朦朧とし、全ての音が遠のいた脳に、その音は届かなかった。
●END●
→あとがき