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□三世之縁(さんぜのえにし)・後半
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蝉の声が、沢の涼しげな音が、聞こえた。
陽射しが、薄い障子を突き破って、部屋を明るくする。
六畳一間の何もない部屋のど真ん中で、饐(す)えたような匂いさえ放ちそうな汚れきった元は白いはずの布団の上に、男は放り投げられていた。
男はそっと目を開けた。ぼんやりと虚ろなまま、ただじっと動かない。
動けなかった。
首をそっと横に動かすと、眩しく光を反射する円形の鏡を見つけた。そこに、自分の姿が映し出される。
髪はぼさぼさで、汗と涙と唾液まみれの顔に張り付いているし、噛みすぎた唇は熟れ過ぎたトマトみたいに真っ赤で痛々しい。両手を空(くう)に翳(かざ)して見れば、手首は鬱血し、畳で擦れた箇所は、うっすらと血が滲んでいた。
お腹は鈍い痛みがあるし、後ろの孔からはだらだらと男のモノが溢れている感覚があるのに、未だに挿入(はい)っているようにも感じる。
男は動かなかった。男の表情は、固まっていた。
いつまで続ければ良いのだろうか。
いや、いつまで続かされるのだろうか。
痛い痛い痛い痛い。
男は動かなかった。動きたくなかった。
どたどた、と騒がしい足音が聞こえた。
反射的に男は硬直する。
「まだ寝てんのかよ。」
障子が開け放たれ、一瞬、激しい光に目が眩んだ。そのまま自分の存在まで、消えてしまう錯覚に陥った。しかし、それよりも存在を脅かすのは、眼の前の男だということは解っていたけれど。
蔑む瞳と出会う。
男は不意に二ィと口端を上げて、膝を顔の近くに降ろし、同じ造作の顔を鼻っ柱がくっ付きそうな程近づけた。
「それとも、まだヤりたんない?」
言葉に、男は目を瞠(みは)った。
「アンタ、淫乱だもんな。」
身体を揺らし、男は耳障りな声音で笑う。男はカッとなって、力の入らない手で男の頬を打つ。パシッと高い音が鳴った。うっすらと色付いた頬を、手で抑える。
「…本当のこと言われたから、怒ってんだろ。」
だが、振り向いた顔と声には、愉快だと言わんばかりの表情が見える。男は打たれた頬と同じ場所にすっと手を伸ばし、添えた。
「テメェの本当の正体は、弟の肉棒に病みつきな『淫乱』で、弟に組み敷かれてそれから抜け出せない『無能者』、なんだよ…。」
『違う。』と、男は言おうとして、口を閉じた。閉じるしかなかった。
約一年。そうして生きてきたからだ。この部屋に、閉じ込められて――否、毎晩のように激しく犯されて動けなくなって、無様な姿になって、外に出られるはずがなかった。
自分が服を纏った姿など、自分自身いつ見たかさえ思い出せない。
もう、いっそ。
男の言葉に、頷いてしまえば良いのかもしれない。
それでも。
男としてのプライドと、家長になるべく育てられた自信とが、それを必死で否定する。
手足がぶるぶると震え、葛藤している。
だが。
沈黙は肯定の意味でもある。男はそれに気づき、何か言おうとするが、しかし言葉は出なかった。そして、それを見つめる男は、その沈黙の意味をしっかりと理解していた。
「ぁあ、そうだ。」
男は身体を退き、さも世間話を始めるように言った。
「アンタさ。昨日、自分の女の味、解った?」
「―――――――。」
「初夜だったんだよ。」
男は、言葉を失い、全ての動きを止めた。じっと男を見つめる。
「昨日、結婚式やったんだよ。結婚式。」
昨日のことを回想する。本宅からかなり離れたところにあるが、確かに昨日は随分と外が慌しかった。騒がしかった。時計のないこの部屋で、時間の感覚はないが、昨晩、男は来るのが遅かった気がする。
そして、漸く男は思い出す。
男が部屋に入ってきてすぐに望んだ行為を。
「っ――――!」
パッと口元を両手で押さえる。
青臭く、生ぬるい独特の感覚が口内に広がる。
「…悲しいか?」
青ざめたその様子を見て、男は問い掛ける。口元には笑みが深く刻まれている。
「つっても、アンタの趣味ではないよな。あの女。アンタの好みなんて、俺がよぉく、解ってるからな。」
今度は男が口元に手を添えて、立ち上がる。片方の手は腹に添えられ、前かがみのまま、ゆっくりと部屋を歩きだす。
「…誰も気づかねぇの。アンタじゃなくて、俺だってことに。あの女も最後まで気づかないで、アンタの名前言って、果ててったよ。」
忍び笑いから、大きな嘲笑に変わる。
何が可笑しいのか、男は狂ったように笑いを止めることができない。
男は、自分の知った恥辱の事実で愕然としていたが、その異様な光景に目を遣る。
「そうさ、父さん達が欲しかったのは、アンタじゃない。勿論、俺でもない。『一番初めに生まれた男児』が欲しかっただけさ。あんたでも、俺でも、どっちでも良かったのさ。」
言いながら男は、目を見開きギラギラと光らせ、再び近づいてくる。そして、眼の前で止まると、ピタリと一瞬にして笑うのをやめて、高い位置から男を見下す。表情はない。
「‥たまたまアンタが先に生まれたってだけなんだよ。」
重低音が、鼓膜を貫く。
(そんなこと、解っている――――)
解りきった事だった。
同じ腹の中で、同じだけの時間を共有し、同じ時にこの世に産み落とされ、同じ顔立ち、同じ体躯をしているというのに。
たかだか数分産まれるのが違っただけで。
長男だから。次男だから。
違う環境。
差別された全て。
与えられる物全てに目に見える差があった。
(・・・たしかに・・・・)
優越感を感じていた。
この部屋で隔離されて、ただ兄の影として生きる、否、生かされる同じ顔の弟を見て。
(でも―――)
同時にそれは恐怖だった。
全てが同じなのに、家畜のような人生を送る人間を見て。
『自分』が、家畜以下の生活をしていて。
もしも自分が後に産まれていたならば、こうなるのだと。
もしも自分が長男らしくなければ、虐げられるのだと。
もしも自分がふさわしくなければ、畜生以下になるのだと。
無言の脅迫だった。
主のいない脅迫だ。
底知れない闇だった。
そして今、まさに。
その闇の真っ只中にいるのだ。
「―――っぐぁ―」
不意に意識を引き上げられる。
(――――苦し・・ぃ)
いつの間にか男は男に組み敷かれて、両手で首を絞められていた。親指が喉仏を、気道を、ぎりぎりと潰していく。じわじわと苦しめられる。
どうにか息をする度にヒュ、ヒュ、と、風を吸う音がする。
痛みと、苦しさに、眉間に皺を寄せて片目を瞑り、戒められている両手で、相手の腕に力の限り爪を立てる。皮膚を破る感触がした。けれど、男は首を締める手を緩めない。
うっすらと開けた片目で見てみれば、男の口元には笑みが掘られ、瞳は見開き、血走り、息はあがり、まるで熱に浮かされているようだ。恍惚とさえしている。
「なぁ、なぁ・・・。このまま死ぬかぁ・・・?アンタが死ねば、俺は、俺は、生きられるんだよ。」
早口でもないのに、男は舌足らずに話す。それがなぜか、艶を帯びているようにも聞こえた。
「アンタも嫌だろ?いや、だろ?このまま、じゃ、嫌だ、ろぉ?」
「ぅ・・・」
男の首が絞まる。
両目をきつく瞑る。歯を食いしばる。
最早、男は何をしているか解っていない。ただ、絞めているから、絞めるだけだ。
「俺も嫌だ、よ。」
子供のように、拙い、小さな弱い声音。
みるみるうちに男の表情は、哀愁を漂わせる。
男は戸惑った。
引っ掻いていた指が止まった。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ。」
ハの字に眉を下げて、懇願するように、駄々を捏ねるように連呼し、がくがくと男を揺さぶった。
「・・っや、やめ、ろ、やめ、や、・・ろっ!」
脳が揺さぶられ、視界が上下にぐらつき、握りしめられた首は絞まり、歯と歯が何度も打ちつけられて顎が外れそうになる。制止の言葉もまともに紡げない。
「同じなのに。同じ、だろぉっ?どうして、分けるんだ。」
(怖い怖い怖い怖い怖い怖い)
これは、理性に逆らう恐怖じゃない。本能に逆らう恐怖だ。本当の恐怖だ。
生と死の境の恐怖だ。
(殺される――――――――)
「同、じだ、ろ?一緒、だろぉ?アンタは俺のモンだろぉっ――――?ずっと、ずっと、ずっとずっとず」
脈絡のない言葉。壊れたステレオのようにただ繰り返すだけの音。
それが、恐怖を呷る。
力任せに男を突き放し、咄嗟に近くにある物を投げつけた。
容赦なく、それで殴る。殴りつける。
硬い音と、小さな呻き声、鈍い何かが何かに刺さるような感覚に、ハッと我に返った。開いた視界に飛び込んできたのは、惨劇。
手にした丸鏡は割れて、男の腕に、男の頭に、顔に、所々痛々しく突き刺さっていた。血が溢れ出る。しかし、男は表情を変えず、平然と男を見据えた。
「アン、タ、は・・・。ずっとずぅっと・・・そのまんま、だよ。俺のモノ、の、まんま、だよ。」
あまりにも平然としたその全てに、膝がガクリと折れる。腰が落ちる。崩れる。
一緒に手元から、赤く染まった鏡の残骸が転がった。
丁度、男と男の間で止まったそれの上に、男の手が置かれる。男は、体重をそこに全てかけて這いずるように男に近づいていく。パリ、と壊れる音がした。
男が手を離せば、そこには鮮血が溜まっていた。
その手で再び、男は男の頬に触れる。ビクリと肩を震わせるが、男は動けなかった。
視線も逸らせない。
真摯にも見える、冷静で、穏やかで、必死で、熱のある瞳が射抜く。
「兄さん。」
先ほどとは違う。明瞭な声。意志のある言葉。
「俺は、アンタが、
憎くて
憎くて
憎くて
・・・――――たまらないよ。」
そう言って、男は触れるだけの、初めての口づけをして。
「…修、一郎・・・・」
事切れた。