treasure

□ハリコさま
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「秀吉」




紅い唇からぽつりと漏れたのは、弱音でもなんでもなく、敬愛する友の名だった。






くれない





長年付き合っててきた労咳を、さほど気にしたこともなかった。
しかし、昨年の冬からどうも体調がすぐれず、起き上がることすら億劫だ。そんなときほど、自分の非力さを呪ったことはない。
重たい四肢を叱咤してなんとか起き上がっても、常に重い身体はまるで鎧兜でも着ているようで、余計にいらだたしい。

けれど、ただ一人と敬い愛する友の顔を見、己の名を呼ぶその声を聞くだけで、気怠い四肢に力がみなぎるような感覚を覚えた。
あるいは、ただでさえ前を向いている友に、要らぬ気遣いをさせたくなかっただけなのだ。


(噫(ああ)、なんという軟弱だろう…)



桔梗色の仮面を着けるのは、青白く病に侵された顔を隠すためだ。
白い着物を纏うのは、死に装束などではなく、友の為に全てを捧げる覚悟のためだ。


(それが、)


いまでは起き上がる事も困難で。
瞼を閉じることを、これほど恐れたことはない。
ただでさえ女のように細い身体は、病のせいで一層細くなった。忌ま忌ましいと思う。
いつ来るともしれない黄泉からの使者に、脅えながら。軍議にすら出席出来ないことが、腹立たしい。





「ひでよし」





もう一度、名を呟いた。
先程吐いた血を拭き取らなかった唇は、紅を引いたように紅い。床の中、暫く切らなかった銀色はだいぶ長くなった。日の光を浴びて艶やかに煌めいたあの頃と違い、精彩を欠いてしまっている。
この髪が好きだと、憮然とした顔で言ってくれた友の隣は、いま誰がいるのか。

まだ自分の場所は空いているだろうか。



まるで娘のようだと、半兵衛は自嘲した。
これでは嫉妬のようではないか。

(そうだ、僕は嫉妬している)

気付いてしまえば簡単なこと、と半兵衛は瞼を閉じた。


(彼の隣にあるのは、この僕だ)


浅ましいと思う。同時に、この感情が愛おしいとおもう。





「―――…、」



もう一度呟いた名は、喉につかえて音を生まなかった。









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