エッセイ集

□読書ノート
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ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(5)――論考の論理学



6節は,素人には難しい。
けれども,魅力的な言葉が連なっています。
一番好きな節です。

とりあえず,分かりやすそうな命題だけを列記。

6・1
論理学の諸命題は,恒真命題である。

※恒真命題,すなわち,トートロジーということ(飯田隆『ウィトゲンシュタイン』344頁)。

6・11
それゆえに,論理学の諸命題は,何ごとも語っているのではない。〔それは,分析的な命題である。〕
6・111
論理学の命題を内容的なものと思わせる理論は,つねに間違っている。そうした理論によれば,たとえば,真と偽という語も,他の諸特質のうちの二つの特質を表している,などと思いこむこともできよう。そうなると,どのような命題も,これら二つの特質のうちのとくに1つを所有している,などと思いこむこともできよう。そうなると,どのような命題も,これら二つの特質のうちのとく一つを所有しているということは,まさしく注目に値する事実であるかのようにも思われよう。このことは,とても自明なこととは思えない。たとえば,「すべてのばらは黄であるか,赤であるかのいずれかである」という命題は,仮に事実そうであるとしても,何ら自明なこととは思えないが,ちょうどそれと同じように,それぞれの命題が真偽いずれかの性質をもつことも,とても自明なこととは思えない。しかり,その命題は,いまやまったく自然科学的命題の性格をもっている。それ故,このことこそ,それが間違って理解されていることの確かな目じるしである。
論理学の命題を正しく説明するということは,その命題に対して,諸命題のすべてのなかでの独自の位置を与えることでなくてはならない。
6・113
それが論理学の命題であることの特別な目印は,ただシンボルだけでそれが真であることを認識できる,ということにある。この事実のなかに,論理学の哲学のすべてが含まれている。かくして,非理学的命題の真偽は,その命題だけでは認識できないということも,もっとも重要な事実の一つである。
(略)
6・125
論理学の「真なる」諸命題のすべてをあらかじめ記述してみることは,可能なことである。論理学の古い考えかたにしたがうとしても,やはり可能なことである。
6・1251
それゆえに,論理学には,驚きはありえない。
6・13
論理学は教説ではない。世界の鏡像である。
論理学は先験的である。

『論考』の論理学の以上引用に係る節も,箴言的で良い。
話としては,論理は,示すことができるだけで,説明することができないということです。
説明することはできない,というのは,論証することができないということ。

私たちは,正しいことは論証ができると思います。
論理は,正しいものであると思われています。
あらゆる命題について,論理的であることは,正しいことの要件ですから,その大本のところの論理は正しいはずである,そう思いたくなります。
しかし,私たちは,論理の正しさを説明することはできません。
なぜなら,論理Aを論証する命題Xがあるとして,命題Xはなぜ正しいと言えるのでしょうか。
話は無限後退に陥り,どこまで行っても,正しさを究極的に根拠づけることはできません。
けれども,私たちは,明らかに論理を正しいものだと思っています。
したがって,論理の正しさは,何らの論証なしに,「ただシンボルだけでそれが真であることを認識できる」(6・113)ことになり,私たちは,何らの論証等なしにその正しさが端的に分るのですから,「論理学には,驚きはありえない。」(6・12521)ことになります。
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