エッセイ集

□読書ノート
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ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(4)



諸般の事情により,今回から,中央公論社『世界の名著58』所収の山元一郎訳のものでいきます。
山元訳は,そもそも題名からして「論理哲学論」と特徴的な訳をしているので,素人的には不安ですが,まぁ,素人なので,いいや,ということで進めていきます。

4・128
論理的形式に,数はない。
それゆえに,論理学のなかには,どのような特権的な数もありえない。それゆえにまた,哲学上の一元論とか二元論と,その他もありえない。
――深い意味はないのですが,何となく,印象的なフレーズだったので,引用しました。

以上の後,もう5節へ。

5・1361
将来の出来事を,現在のそれから推論することは,できることではない。
因果関係への信仰は,迷信である。

5・1362

いわゆる意志の自由は,将来の行動をいまから知ることはできないという点に成立する。ところで,それを知るということは,因果関係も論理的推論の必然性と同じように内的に必然的なものであると仮定した場合にのみ,可能なことであろう。そのとき,知ることと知られたものとの連関は,論理的に必然的な連関である。
(略)

前2節,特に,後節第1文は,自分自身で時間について考えていたときに,同様に思いついていたことであるので,勇気づけられると同時に,虚しくなってきます。
なお,山元による訳注によれば,「スピノザには,いわゆる意志の自由は,人の行動を支配する因果関係,とくに原因に対する無知に由来する,という思想がある。」とのことです。

5・47321
オッカムの格言は,もとより勝手な規則ではない。その実用的な効果によって確かめられた規則でもない。その趣旨は,必要ならざる記号単位は,何事をも意味していないということである。
――ここまで打ったところで,翌朝。プレミアム・モルツを飲みながら打っていたので,なぜ,この部分の引用を打ち込んだのか,自分でも分かりません。
多分,仕事で文書の添削をする際,余計な記述を見つけたとき,「必要ならざる記号単位は,何事をも意味していないということである。」とか言うと,何やら格好よいなあと思ったためであると思われ……。

5・551
ともあれ,論理学によって決断できる問いのすべては,一挙に決断されねばならない。以上が,私たちの原則である。
〔このような問題に回答するためには,ひたすら世界を凝視しなくてはならない,ということになるようだと,このことこそ,私たちの道筋が基本的に間違っていることのしるしであろう。〕

5・552
とくに論理学を理解するのに必要な「経験」とは,何かがしかじかのありさまであることの経験ではない。何かがあることの経験である。しかしながら,あるということ自体は,なんら経験されることではない。
論理学は,何かがそうであることの全経験に先立つ。
論理学は,なるほど,「どのように」(wie)ということには先立つが,しかし,「何か」(was)ということに先立つのではない。

5・5521
もしそうでないとすれば,私たちは,どうして論理学を応用できるのであろうか。
あるいは,こういってもいい。仮に世界が存在しないときにも論理学は存在するのであるならば,現に世界が存在しているときの論理学は,どのようにして存在しうるのであるか,と。
――後に出てくる,世界に人が存在していないときにも,倫理学が成立することができるか,という問題に絡んでくる。

5・6
私の言語の限界は,私の世界の限界を意味する。
(この節は,飯田隆『ウィトゲンシュタイン』98頁による。)
――やはり,この一節は出したい。

5・61
論理が世界を満たしている。世界の限界は,論理の限界でもある。
かくして論理の内部では,これこれは世界のうちにあるが,あれはない,などとはいえない。
そんなことをいうのは,ある種の可能性を,世界から締め出せることを前提にしているかのようにも見えるが,そういう閉めだしは,けっして起こり得ないであろう。もし起こるとすれば,論理は世界の境界を乗り越えねばならぬことになるであろうから。そうすることによってのみ,この境界は向こう側からも観察できるのであろうから。
思考することのできぬものを思考することはできない。とすれば,思考することのできぬものを語ることもできない。
――前記の一節と同様であるが,山元の訳注によれば,「思考することのできぬものを語ることもできない。」理由は,「思考することのできないもの=非論理的なもの」であるが故に,言語を使うことができないという意味だそう。

5・62
以上の注意が独我論はどの程度まで真理であるかという問いに,解決の鍵を与えてくれる。
すなわち,独我論がいおうとしていることはまったく正しいのであるが,遺憾ながらそのことは,語られえぬことである。みずからを示しはするけれども。
世界は私の世界であるということは,言語の〔それだけを私が理解している言語の〕境界が,私の世界の限界を意味している,ということのうちに示されている。
5・621
世界と生とは一つである。
5・63
私とは,私の世界のことである。
5・631
思考し表象するところの主体なるものは存在しない。もしも私が『世界見たまま』と題する書物を書くとしよう。その書物には,当然に,私のからだについても報告がなくてはなるまい。そして,からだのどの部分が私の意志に服従して,どの部分が服従しないか,なども語らねばなるまい。これがすなわち,主体なるものを分離する方法,むしろ,重大な意味において,主体なるものは存在しないことを示す方法である。すなわち,主体についてだけは,この書物のなかで論じようがないのである。
5・632
主体は,世界のうちに属するのではない。それは,世界の限界なのである。
――論考の独我論の部分は,何回読んでも響きがよい。
私自身も,独我論的な発想が好きな生もあるが,もう1つ同様の節の引用。
5・64
ここからして,独我論は,厳密におしつめてみると,純粋なリアリズムに合致することがわかる。独我論でいう自我は,結局は延長のない点に収縮してしまって,残るものは,それに対置された実在だけである。


個人的には、「独我論」は、そのようにしか考えようがないのではないか、というくらいもっともな発想にしか思えないのですが。
ウィトゲンシュタインの独我論も評判が悪く、ウィトゲンシュタイン自身、最終的に放棄はするのですが、なぜ、誤っているのか理解できないところが困りものです。
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