エッセイ集

□読書ノート
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『孫子』を読む・第2部(3)



旧日本軍の問題点として,文民統制が機能する余地がなかったことはよく言われます。
すなわち,大日本国定国憲法では,国体観念を前提に天皇の権限を機軸としてそれが不当に毀損されないよう配慮するため,法律の制定には議会の協賛が必要とされた(37条)ものの,11条において

天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

と規定し,何ら他の機関による関与が規定されていないことから,これを根拠に「統帥権の独立」が認められており,統帥(軍令事項)については内閣の権限は及びませんでした。
もっとも,軍政(軍の編成や兵力量などに関する事項)は内閣の権限下にあって陸海軍大臣が管轄していたことから,軍は,その意向にそわない場合には,軍大臣を送ることを拒み,あるいは軍大臣を引き上げるなどして,組閣を阻み,あるいは内閣を退陣に追い込むことのできる立場にありました(佐藤幸治『憲法〔新版〕』66〜68頁)。
このため,「日本ではシビリアン・コントロールというものがいっさいな」く,「軍事を担う統帥権の側では一貫して統帥権は統治権より優位にあると考え」,「戦争になれば紛れもなく統帥権の支配ですから,統治権を下部に置くというのは,彼らの発想からすると当然」であり,「さらに軍が,神権化した天皇,つまり神の権力を持った天皇という存在にして天皇機関説を押さえ込んだ時から,統帥権が独走する土壌が出来上がっていった。」(保坂正康『太平洋戦争10のポイント』80頁)と言われます。

さて,古代中国の軍政は徹底した文官統制を敷いていたのですが,孫子には,このような武官を統制することを否定する記述が少なからずあります。



君之所以患軍者三。不知軍之不可以進,而謂之進,不知軍之不可以退,而謂之退。是謂繋軍。不知三軍之事,而同三軍之政者,則軍士惑矣。不知三軍之権,而同三軍之任,則軍士疑矣。三軍既惑既疑,諸侯之難至矣。是謂乱軍引勝。
――君の軍を患わす所以の者は三なり。軍の以て進む可からざるを知らずして,之に進めと謂い,軍の以て退く可からざるを知らずして,之に退けと謂う。之を軍を繋ぐという。三軍のことを知らずして,三軍の政を同じゅうすれば則ち軍士惑う。三軍の権を知らずして,三軍の任を同じゅうすれば,則ち軍士疑う。三軍既に惑い既に疑わば,諸侯の難至る。是れを軍を乱して勝を引くと謂う。(51〜52頁)

(浅野訳)
君主が軍隊に憂患をもたらす原因が三つある。その第一は,軍隊が進撃してはならない状況を知らぬのに,進撃せよと命令し,軍隊が退却してはならない状況を知らぬままに,退却せよと命令することである。これを,軍隊の自由な行動の束縛というのである。その第二は,軍隊の達成すべき事業に無知でありながら,軍隊内の統治を将軍と同等に行おうと介入すれば,兵士たちはどちらの命令を聞くべきか判断に迷うことになる。その第三は,軍隊の権変の措置に無知でありながら,軍隊の指揮を将軍と同等に行おうと介入すれば,兵士達は将軍の命令に従うべきか否か疑うことになる。軍隊がすでに判断に迷い命令を疑う自体になれば,それまで中立だった諸侯たちが敵方について参戦するとの危難がふりかかってくる。これを,軍隊の指揮命令系統をかき乱して自ら勝利を引き去る,というのである。



先に,文官統制の話が出てきましたが,軍が前線に出動した後も,君主は,将軍のもとに頻繁に使者を派遣し,軍の運用について指示を与えることが常でした(52頁)。
ところが,君主やその周りを固める文官は,軍事のことには疎いですから,的確な指示をなしえません。
そこで,軍隊が混乱することを誡めたのが,先に引用した孫子の記述なのですが,餅は餅屋の問題とは,文民統制という観点で見ると,若干の不安を感じます。
そのため,浅野も,「もとよりこれは,次段に『将の能にして君の御せざるは勝つ』とあるように,将軍が有能であることを大前提としている。」とのフォローを入れるのですが,後の記述は,更に強い表現がなされています。



故戦道必勝,主曰無戦,必戦可也。戦道不勝,主曰必戦,無戦可也。
――故に戦道必ず勝たば,主は戦うこと無れと曰うも,必ず戦いて可なり。戦道勝たざれば,主は必ず戦えと曰うも,戦うこと無くして可なり。(186〜187頁)
(浅野訳)
「そこで,先頭の道理として自軍に絶対の勝算があるときには,たとえ主君が戦闘してはならないと命じても,ためらわず戦闘して構わない。逆に戦闘の道理として勝算がないときには,たとえ主君が絶対に戦闘せよと命じても,戦闘しなくても構わない。」(186頁)



浅野は,この記述についても,後の記述を引きながら,「孫子は将軍に対し,いついかなる場合でも軍事的利害のみを唯一の基準に行動し,我が身の利害などいっさい考慮せぬよう求める。名誉や功績を欲せず,汚名や誅殺を恐れず,ただひたすら民衆の生命を無駄に失わせるよう計りながら,君主や国家に利益をもたらそうとするのは,将軍がすでに己れを全く無にしていてこそ,はじめて可能な行為である。(中略)孫子は将軍に対し,純粋な策謀家たれと教えているのである。『進みて名を求めず,退きて罪を避けず,唯だ民を是れ保ちて,而も利の主に合う』とは,軍人と国家のあるべき関係,そして職業としての軍人の倫理を説いて,けだし至言である。」(189頁)とフォローを入れますが,そもそも,先の戦争における軍部の幹部らも,私利私欲がないと称して,作戦を展開していったのではないでしょうか。(了)
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