エッセイ集

□読書ノート
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『孫子』読む・第2部(2)


「西欧近代兵学に対する盲目的過信」に対する反省迫るとも言われる「孫子」の前近代性とを主題とする第2部の2回目です。

先の戦争に関しては,軍部が,きちんとした情報を一般国民に伝えなかったことが,これをきちんと伝えた(あるいは,上手く伝えた)米国との比較で非難されることが間々あります。

典型的な指摘ですが,今回も,保坂正康の『太平洋戦争10の失敗』に代弁をしていただきます(管理者の読書経験の不足がばれそうで怖いのですが,差し当たり手近にある本でしたので)。

若干長い引用になりますが

「なぜ戦うのか」という使命感とでも言うべきものは,やはり大きな意味を持つんじゃないか。それが兵士たち一人一人に理解されていけば,一人のちからが何倍もの作用をする。(中略)なぜアメリカの兵隊たちは,初期の劣勢(管理者注:ヨーロッパ戦線を含めた先の戦争における米国兵士の戦死者数は,約20万人であるところ,真珠湾攻撃ではその1パーセントに当たる2000人の戦死者を出しており,近代戦史上稀な成功,米国にとっては屈辱的敗北と言われる。)の中でも,パイロット(管理者注:保坂のこの記述はミッドウェー海戦(1942年6月)を前提とするものだが,当時の米軍のパイロットは,大学生又は大学卒業直後の志願兵が大半の即製の部隊にすぎなかった)として日本軍のベテランと対峙するのを怖がらないで出てきたのか。それは結局,司令官たちが戦争の行く末と戦争の方向をきちんと説明していて,最終的に我々は勝つんだ,その根拠はこうであると,きちと説明がなされていたということなんです。(保坂前掲書60頁)
(中略)
私たちの口でも勝つというこてゃ常に強調されていましたし,「皇国の精神をもってすれば」とか「建国以来戦っても,負けたことのない」と指導者は言い続けましたけれども,具体的,論理的に,つまり理詰めで「勝つ」と納得され得るデータは示されなかった。(同61頁)
(中略)
アメリカの兵隊たちは,少なくとも納得して戦場に来ている。日本の捕虜になって,日本のデータを示されても,いや,それは違う,我々の国はこうである,だから絶対に勝つんだと断言する。それは日本が示すデータよりも,向こうのデータの方がはるかに説得力を持っていたからであり,最終的にはその差が出てきたんだという気がします。(同62頁)

といったような指摘は,ほかの著作などにも見られるところです。

しかし,「孫子」は,以上の指摘の中に出てくるような兵士に対する情報公開と納得というべきものを徹底的に否定します。


凡爲客の道,深入則専,主人不克。掠於饒野,三軍足食。謹養而勿勞,併氣積力,運兵計謀,爲不可測,投之毋所往,死且不北。死焉不得,士人盡力。兵士甚陥則不懼,無所往則固,深入則拘,無所往則闘。
――凡そ客為るの道は,深く入れば則ち専らにして,主人克たず。饒野(じょうや)に掠むれば,三軍も食に足る。謹み養いて労すること勿く,気を併わせ力を積み,兵を運らして計謀し,測る可からざるを為し,之れを往く所毋きに投ずれば,死すとも且(は)た北(に)げず。死を焉(いずく)んぞ得ざらんや,士人力を尽くす。兵士は甚だしく陥れば則ち懼れず,往く所無ければ則ち固く,深く入れば則ち拘し,往く所無ければ則ち闘う。(206〜207頁)

以上の浅野訳は次のとおりです。

「およそ敵国内に進攻する方法としては,徹底的に奥深くまで侵入してしまえば,自軍の兵士たちは結束するから,散地で闘う迎撃軍は対抗できない。肥沃な土地で略奪すれば,全軍の食料も充足する。慎重に兵士達を休養させては疲労させないようにし,士気を一つにまとめ戦力を蓄え,複雑に軍を移動させては策謀をめぐらして,自軍の兵士たちが目的地を推測できないように細工しながら,最後に軍を八方ふさがりの状況に投げ込めば,兵士達は死んでも敗走したりはしない。どうして死にもの狂いの勇戦が実現されないことがあろうか。士卒はともに死力を尽くすのである。
 兵士たちは,あまりにも危険な状況にはまりこんでしまうと,もはや危険をおそれなくなり,どこにも行き場がなくなってしまうと,決死の覚悟を固め,敵国内に深く入り込んでしまうと,一致団結し,逃げ場のない窮地に追いつめられてしまうと,奮戦力闘する。」(205頁)

孫子は,会戦をするにあたっては,敵国領内深くに自軍を侵攻させた上でするのが最善であると主張します。
なぜなら,自国領土内,国境および敵国領土内の国境付近では,兵士たちは,自分の故郷に逃げることが,可能であることから,自軍が劣勢になるなどすれば,勇気がくじかれ容易に敗走し,逆に,敵国領土内へ深く進攻してしまえば,逃げようがないことから,勝利する以外に自らの死を避ける手段がなくなるので,逃げることなく必死に戦うことになるからです。
そのため,孫子は,自軍兵士に自らの部隊が一体どこを移動しているのかを知らせることなく(知らせてしまえば,兵士たちの中には恐怖感を抱いて逃げ出す者も出てくるからです),敵国領土内に進行させ,兵士を正しく死地に放って戦わせるのを最善だと考えるのです。

孫子は,余程この作戦が気に入っているとみえ,同種の記述は,これでもかという風に繰り返し出てきます。



将軍之事,静以幽,正以治。能愚士卒之耳目,使無之。易其事,革其謀,使民無識。(中略)如登高而去其梯,師興之深入諸侯之地,發其機,若駆群羊。駆而往,駆而来,莫知所之。聚
――将軍の事は,静かにして以て幽(ふか)く,正しくして以て治まる。能く士卒の耳目を愚にして,之くこと無から使む。其の事を易(か)え,其の謀を革(あらた)め,民をして識ること無から使む。(中略)高きに登りて其の梯を去るが如く,師いて之れと深く諸侯の地に入り,其の機を発するは、群羊を駆るが若し。駆られて往き,駆られて来たるも,之く所を知ること莫し。三軍の衆を集めて,之れを険に投ずるは,此れを将軍の事と謂う。九地の変,屈伸の利,人情の理は,察せざる可からざるなり。

(浅野訳)
将軍たる者の仕事ぶりは,表面はどこまでも平静を保つので,誰からも,内心をうかがい知られぬほど奥深く,万事につけ個人的感情を一切出さず公正に処置するので,軍隊内が整然と統治されるのである。
士卒の認識能力を巧みに無力化して、逃亡しないように持ってゆく。(中略)高い場所に登らせておいてから、こっそり梯子をはずすようにし,実際に軍事行動を開始し軍を引率して異国の領内深く侵入し,軍を決戦に向けて発進させるときには,従順な羊の群れを駆り立てるようにする。兵士たちは真実を告げられぬまま駆り立てられて往ったり来たりするだけで,誰にも行く先は分らない。全軍の兵力を結集して,それを見破られぬように危険な状況の中に投げ込むことこそ,将軍たる者の事業と称するのである。(212〜213頁)



之れを犯うるに事を以てし,告ぐるに言を以てする勿れ。之を犯うるに害を以てし,告ぐるに利を以てする勿れ。之れを死地に陥れて,然る後に生く。夫れ衆は害に陥りて,然る後に能く敗を為す。
――犯之以事,勿告以言。犯之以害,勿告以利。投之亡地,然而後存,陥之死地,然後生。夫衆陥於害,然後能爲敗。(221〜222頁)

(浅野訳)
全軍の兵士たちを意のままに使役するにには,ただ不利な状況だけを周知させて,その陰に潜む利益の面を教えてはならない。兵士達は彼らを滅亡必死の窮地に放り込んだ後に,はじめて命をながらえるのであり,彼らを死ぬほかない窮地につき落としたのちに,はじめて生き延びるのである。いったい兵士達は,とてつもない危険にはまり込んだのちに,ようやく敗れかぶれの奮戦をするものである。(222頁)


まったく乱暴な発想ですが,先の戦争における日本政府(あるいは軍部)の自国民に対する情報開示という点からすると,このような秘密主義的な方法は,純日本的というよりは,アジア的なものの感じがします(中華人民共和国や,特に,北朝鮮などは今でも非常に秘密主義的ですし)。
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