エッセイ集

□読書ノート
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『孫子』を読む・第2部(1)


孫子は,肯定的に取り上げられることが多い戦術書です。

孫子は,「ナポレオンが多忙な戦陣の間にも,(中略)手放そうとせず」(浅野裕一訳『孫子』「解説」266頁),「独皇帝ヴィルヘルム二世が,第一次大戦終結後に亡命先のロンドンで初めて(中略)接し,もし二十年前にこの書を得ていたならば,あのような惨敗を免れたであろうにと悔恨した」とも言われる古典です(浅野裕一訳『孫子』「解説」266〜267頁)。

そして,単に,過去評価されてきただけではなく,第1部冒頭でも取り上げたように,現在でも,ビル・ゲイツなど海外の著名人にも読まれていることが喧伝されます。
また,日本の経済人が取り上げることも少なくありません。

管理者が,今更ながら孫子を読もうと思った動機も,給与生活者として働く中で,上司や仕事上の関係者との会話の材料にしやすいのではないか,というせこい根性があったからです。
しかし,実際に読んでみると,孫子の記述には,ぼんやりと抱きがちな肯定的なイメージと相違するものも多々あることに気付かされました。

浅野裕一先生は

近代以降における西欧の軍事力の圧倒的強大さが,実体以上に(引用者注:クラウゼヴィッツなどの)西欧近代兵学に対する盲目的過信を生み出したことは否めない。だが軍事力の優劣とはいったん切り離した形で,軍事思想それ自体の意義を評価しなおすとき,「戦わずして人の兵を屈する」(謀攻篇)ことを至上の理念とする『孫子』への回帰が唱えはじめられる。(中略)世界最古の兵書『孫子』は,現在もなお不滅の光芒を放ちつつ,世界の兵学史上に屹立しているのである。(269〜270頁)

とその現代的な意義を語り

明治以来プロシア兵学の忠実な信奉者として戦い続け,ついに未曾有の惨敗を喫した日本においても,われわれはあまりにも『孫子』を無視しすぎたのだ,とする後悔の弁を聞くことができる。(中略)遅すぎた反省は,わが国にもようやく『孫子』再評価の動きが出始めたことを示している。(268〜269頁)

と先の大戦におけるわが国の敗北とからめても,その意義を語る。

しかし,管理者には,先の大戦におけるわが国の失敗の通底が,「孫子」の中に「アジア的な戦争観」とでもいうべきものとしてあるのではないか,と思われます。

保坂正康は,その戦争観に関し

「我々の国は,あの戦争指導の中に歴史的普遍性に欠ける体質をあまりにも多く抱えすぎている。」(保坂正康『太平洋戦争10のポイント』5頁)

と代弁してくれますが,孫子には,「歴史的普遍性に欠ける体質」を抱えた「あの戦争指導」に結び付く記述が少なくありません。

分かりやすい記述は,次のようなものでしょう。




智将務食於敵。
――智将は努めて敵に食む。(34〜35頁)

取敵之貨者利也。
――敵の貨を取る者は利なり。(37頁)




孫子は,「十万規模の大軍が敵国内に長駆侵入し,会戦で一挙に勝敗を決する戦争形態のみを想定」した(33ページ)兵法書ですが,このような遠征軍で問題となるのは,田中芳樹の疑似戦争小説によく出てくる「補給」です。
孫子には,先に触れた



兵聞拙速,未睹巧久也。
――兵は拙速を聞くも,未だ巧久を睹ざるなり。
(30〜32頁)

兵貴勝,不貴久。
――兵は勝つを貴びて,久しきを貴ばず。
(38〜39頁)



のように補給の問題を念頭においた記述が散見され,孫子が,補給といった地味ですが,重要な事柄についても考えを巡らせていたことは驚きです。
孫子は,このような補給の問題を解決する方法として,遠征した先の国からの収奪を繰り返し直裁に取り上げます。
しかし,このような収奪戦術が,戦争法規違反であり,日本軍が,南京事件など中国戦線などにおいて,これを行ったことが強く非難されていることは,よく知られているところです。
時代的な制約もあり,当たり前でもあるのでしょうけれども,孫子には,このような前近代的な記述,近代線においては,強く非難されるべき戦術を推奨する記述が少なくありません。
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