エッセイ集

□読書ノート
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ユルゲン・ハーバーマス『ハーバーマス・シンポジウム「法制化とコミュニケーション的行為」基調講演』を読む。



ユルゲン・ハーバーマスの著作は、いずれも分厚く、しかも晦渋なところが悩みです。

管理者は、ハーバーマス自身が何かをごまかしているから、分かりにくくなっているのではないか、と思うのですが、訳の分らないものをありがたく思うのは、仏教の受容以来の習いのようで、一生懸命解釈をして、「ハーバーマスは、すごい(で、そんなハーバーマスを理解している自分もすごい)」と言っている研究者が多いように感じます。

そんな中で、河上倫逸,M.フーブリヒト編『[ハーバーマス・シンポジウム]法制化とコミュニケイション的行為』(1987,未来社)に収められた京都大学での基調報告は、講演ということもあって比較的分かりやすく、まら、ハーバーマスの本音が見え隠れしているところが参考になります。



21頁 K・−O・アーペルと私は,ここ数年,コミュニケイション理論の手段を用いて規範を基礎づけるという問題に関して,カントの道徳理論を新たに定式化しようと試みてまいりました。



――ハーバーマスは、価値相対主義に対する危惧感を有しており、道徳を基礎づけようという意志に基づいて自分の考え方を作り出そうとしていることが分かります。



23頁 道徳理論に説明が求められております基本的現象は,命令あるいは行為規範の当為妥当なのです。こうした観点に立つ場合には,義務論的倫理学が問題なのです。義務論的倫理学では,規【24頁】範あるいは命令の正しさ〔正当性〕は,主張文の真理性とのアナロジーで理解されます。もちろん,当為文の道徳的「真理性」は,――直覚主義あるいは価値倫理学の場合のように――言明文の主張的妥当と同一のものと考えてはなりません。カントは,理論理性と実践理性とを一緒くたにはしておりません。規範的正当性を,真理性に類似の妥当要求と私は理解しております。こうした意味においては,認知主義的倫理学も問題となってきます。認知主義的倫理学は,規範的言明がどのようにして基礎づけられるかという問に答えることができなくてはなりません。



――ここらで、もう一言言いたくなる。
しかし、言いたくなるという気になるということは、他のハーバーマスの著述に比較し,この基調講演がそれなりに分かりやすいものであることの例証であるといえます。

さて、ハーバーマスは、「文」を「主張文」と「言明文」に分けて説明しています。
「主張文」は、それ自体、「命令」(自分の○○という主張に従え)のようにも感じられます。しかし、「規範あるいは命令の正しさ〔正当性〕は,主張文の真理性とのアナロジーで理解されます。」というのですから、差し当たり、「主張文」と「命令」は、類似はするものの、異なるものであると理解しているのでしょう。
そして、やや分かりにくいのですが、「主張文」は、「真理性」と関係するように語りながら、「言明文」と異なるともしています。
ハーバーマスのような用法(あるいは、ハーバーマスの発言を日本語に翻訳している人の用法)が一般的な言語上の用法かには疑問があり、このため分かりにくくなっています。
おそらく「主張文」も「言明文」も、規範や命令ではないもの、つまり、規範や命令に対立するものである、「事実」又は「科学」に関する命題の種類のことを指すようです。
そして、「言明文」は、「○○という事実がある。」という文であり、「主張文」は、「○○という事実を正しいと思え。」という文であるように思います。
しかしながら、後者は、明らかに命令であり、「主張文」と区分する意義はないように思います。



「主張文」を真理概念に引き付けて考えることにより、「主張文」と類似する命令や規範に関する文についても、真理性を考えることができるのだ、という印象を抱かせるために、敢えて概念をズラしているのではないか、と疑うのですが、うがちすぎでしょうか。




24頁 討議倫理学では,次のような原則「D」を定めています。
 ――実践的討議の参加者であるすべての当事者の同意を見いだすことができるであろう規範のみが,妥当であるとの主張〔妥当要求〕を為すことが許される
 それと同時に,先の【カントにおける】定言命法は,実践的討議において議論規則の一つという役割を引き受ける普遍化原則「U」へと降等されます。この普遍化原則「U」とは次のようなものです。
 ――規範が妥当なものであるとして,各人の利害を満たすためにその規範の一般的遵守が行われたことから生じる成果や副次的効果は,すべての人が強制なくして受け容れることができるものでなければならない。
 最後に,この(あるいは類似の)道徳原理が単に特定の文化あるいは特定の時代の直観のみを表しているのではなく一般的に妥当する,と主張する倫理学を,われわれは普遍主義的とよびます。この道徳原理の基礎づけは,単に理性の事実なるものを指摘することによって果たされないのは当然ですが,それが果たされた場合にのみ,自民族中心的な誤った結論という嫌疑を晴らすことができるのです。



――以上によって、規範や命令について、その妥当性を「合理的に」検討することのできる素地ができるというのですが、その前提として、これから基礎づけられるはずの個別の規範や命令(「実践的討議の参加者であるすべての当事者の同意を見いだすことができるであろう規範のみが,妥当であるとの主張〔妥当要求〕を為すことが許される」等々)の妥当性が認められていなければならないのですから、本末転倒です。



40頁
 その時々の当事者全員を実践的討議に本当に参加できる状態におくのに必要な条件は,討議それ自体によっては満たすことができないのです。特定のテーマにつき特定の場所で討議による意志形成が社会的に期待できるような制度がないことがよくありますし,また,道徳的議論に参加するのに必要な資質や能力――たとえば,コールベルクがポスト慣習的な道徳意識とよんでいるものーーを身につける社会化過程が欠如していることもよくあります。物質的生活関係や社会的構造のありようからして,貧困化や侮辱といったあからさまな事実が誰の目にもとっくに道徳【41頁】的問題への十分な答となってしまっている,というようなことはもっとよくあります。普遍主義的道徳の要請に対して現存の関係があからさまな嘲笑でるところではどこでも,道徳的問題は政治倫理の問題に転化します。反省的な道徳的行為,つまり,人間らしいあり方にとって必要な条件を実現することを目指す実践は,どのようにして道徳的に正当化されるのでしょうか。この問に対しては,手続き的なものにすぎないとはいえ,答を見つけることができます。



――結局、ハーバーマスの言っていた前提は認められないのだと自白しており、考えてみればすごい発言です。
しかし、何で、こんなことを言う人を持ち上げる人がいるのか不思議です。



42頁
 普遍主義的道徳は,実は,「互いに歩み寄る協調的な」生活形式を頼りにしているのです。



――問題は、「互いに歩み寄る協調」性自体が規範的に求められるものであり、それを如何に基礎づけることができるかなのですが。



42頁 
 討議倫理学は,客観的目的論に,なかんずく,歴史的出来事の順序が変更できないものであるにもかかわらず,それを認めない強制的力というものに立ち還ることができません。だがまた,われわれは,以前の世代がわれわれのために被った不法や苦痛をもとどおり償うことはできませんし――あるいは少なくとも,最後の審判の救済力に当たるようなものを約束することもできないのであれば,その都度すべての人々の同意を要求する討議倫理学の原則は,どのようにしたら満たすことができるのでしょうか。【略43ページ】
 ここで私は,こうした疑念から結論を一つだけ引き出してみたいと思います。道徳の狭隘な概念には,道徳理論の控え目な自己理解が対応せざるをえません。道徳理論には,道徳的観点を解明し基礎づけるという課題が与えられます。道徳理論には,われわれの道徳的直観の普遍的核心を解明するとともに価値懐疑主義を論駁することを期待することができ,また,その能力があると考えることができます。だがそれを越えると,道徳理論は自らの実質的寄与を断念せざるを得ません。意志形成の手続を優遇することで,道徳理論は,歴史的客観性をもって自分たちにふりかかってくる道徳的=実践的問題に自力で解答を見つけなければならない当事者に席を譲るのです。道徳哲学者は,道徳的真理に至る特権的な通路をもってはおりません。【略】哲学的倫理学の能力についての私の限定的な見解は,おそらく期待外れでありましょう。



――結局、討議倫理学の原則が満たされる条件は、何ら明らかになっている訳ではない、ということに落ち着きそうです。
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