エッセイ集

□読書ノート
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ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む:補論「言語ゲーム」



語の意味とは、多くの場合、言語ゲームにおける使用である。
――ウィトゲンシュタイン『哲学探究』第1部第43節



ウィトゲンシュタインについて最も関心を持たれているキーワードといえば、「言語ゲーム」でしょう。

しかし、ウィトゲンのいう「言語ゲーム」の意味は、十分に理解されていないと言われます。

たとえば、飯田隆は

《ウィトゲンシュタインの哲学と関連してこうした【引用者注:言語ゲーム等の】語が出てくるたびに私はいくらかうんざりする。こうした語をタイトルの一部とする論文には、最初から眉に唾をつけてかかるというのが、私の習慣である。【略】【引用者注:言語ゲーム等の】語を用いることが、後期ウィトゲンシュタインの哲学に関してひとつの錯覚を生み出しかねないと思われるからである。つまり、【略】【引用者注:言語ゲーム等】の語が、複雑きわまりない言語現象の全体へのある「展望」を与えるためにウィトゲンシュタインが用いた比喩であることが忘れられ、その代わりに、これらの語が、後期ウィトゲンシュタインの哲学、さらにはなはだしい場合には、その「言語理論」の基礎を与える概念を指すと誤解されてしまうことである。 》
(飯田隆『ウィトゲンシュタイン』351頁)
とまで言います。



「言語ゲーム」に対し、十分な理解をしていないのに、なぜ、この言葉が好まれるのか。

それは「言語ゲーム」の言葉から連想されるイメージが、「世界」に対し、私たちが持つ理解の一つと結び付くからであると思われます。

「世界」の幻想性とでもいうべき世界観です。

私たちの直面する「世界」は圧倒的な存在感を持っています。
けれども、同時に、私たちは、その世界の存在に対し、疑問を抱きます。
そこまで行かずとも、「世界」で私たちに対する苦痛として現れることは、私たちの思い込みにすぎないのではないか。



こんな感覚は、遥か以前からあると言って良いでしょう。

「心頭滅却すれば火もまた涼し」というものも、その一例に思えます。



「世界」は私たちの観念の世界にのみ存在し、実在しない。



人生をゲームに例えることはよくありますし、ネトゲ廃人やセカントライフ絡みの詐欺の問題の背景には、人生や世界をゲームの比喩で捉える発想があります。

また、「言語」も観念的なものを連想し易い言葉です。

「言語」と「ゲーム」という現実を離れた観念的なものを連想させる語を合成した言葉であるため、「世界」に対するある種の実感に応える面があるからであると思います。



とはいえ、「世界」が幻想であってもおかしくないはずであるのに、余りにリアルに感じるのは何故かということの方が問題なのですが。
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